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カメラの変遷(1) CANON編(前編)

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さて、新シリーズ記事の開始である。
本シリーズは各カメラメーカーが発売した銀塩・デジタル
のカメラを、主に1970年代から現代2020年代に至る迄の
約50年間の変遷の歴史を辿る記事群である。

緊急事態宣言により、屋外に撮影に行く等という状況
では無いが、「自宅でも出来るカメラの研究」という
事で、既存機材や既存写真を中心に記事を纏めていこう。

紹介機種は、現在なお所有しているカメラに限る為、
完全にカメラ変遷の歴史の全体を網羅できる訳では無い。
また、最新鋭あるいは高額なカメラまで全てを、カバー
できている訳でも勿論無い。

が、おおよそ各メーカーともその時代における代表的な
機種は保有している為(現在なお所有している、又は
過去に所有していた事がある)全般的には比較的精度の
高い情報となるだろう。

実際に、それらのカメラを使った経験が主体となる為、
単に機種名やその仕様だけを調べて年代順に並べただけ
の資料とは全く異なるものだ。

なお、カメラ自身の数値性能や長所短所などの記述は
出来るだけ省略する。
過去記事でたいてい取り上げているものばかりだし、
仕様等の二次情報は他のWEB等でいくらでも参照できる。
(というか、世の中の大半の記事等は二次情報を纏めた
だけのものであり、情報価値が少ないと思っている)
ここでは、その時代の世情や、同時代のライバル機などを
絡めた市場全体の状況などの分析を中心とする。

このシリーズはメーカー毎で、合計十数記事とする予定
であるが、今回の初回記事はCANON編(前編)とし、
1970年代~1990年頃のCANON製カメラ(全て銀塩機)
を紹介する。
なお、挿入している写真は、当該カメラの外観写真または
その、紹介している時代のCANON製レンズを用いて
(CANON製デジタル機で)撮った写真である。

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さて、まずは私が機体を所有していない古い時代の
CANON初期のカメラ群の歴史を簡単に説明する。

1934年 マニアの間では有名な試作機「カンノン」
(KWANON、これがCANONのネーミングの元となった)
が発表されたが、この機体は試作のみで、実際には
発売されなかった模様だ。
(この頃は、「精機光学研究所」という社名で、
まだ町工場のような企業形態であったと聞く)

1935年には、レンズ交換式「ハンザキヤノン」が発売。
こちらも有名な機種だが、キヤノン単独では商品化が困難
であったのか?近江屋写真用品社のブランド「ハンザ」が
冠され、おまけに付属交換レンズは、なんと(ライバルの)
日本光学(ニコン)製であった。(これは「KWANON」の
試作中に、色々と日本光学の力を借りていたから、との事)

ここで初めて「CANON・キヤノン」のブランド名が出て
来るのだが、言うまでも無く「キャノン」ではなくて
「キヤノン」が正しい。
(参考:FUJIFILM社も「フジフイルム」である)

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第二次大戦を挟み、戦後1940年代後半~1960年代前半迄は、
ライカL(39)マウント互換のレンジ機を主に製造販売する。
(注:レンジファインダー機をレンジ機と略す、以下同様)
ここは機種が非常に多いが、後年の中古カメラブーム時も
流通していた人気機種としては、CANON ⅣSb(1952)、
VT(1956),P(1959),7(1961),7s(1965)等がある。

なお、この時代にライカ互換のレンジ機を作っていたのは
CANONだけでは無い。一説には「AからZまですべての頭文字
のメーカーがあった」と言われる程、多くの(バルナック)
ライカL(39)互換機や類似機が乱立していた模様だ。
(注:「AからZ」とは、多少オーバーな表現であろう。
先年、図書館で古い時代のカメラの記録を全て調査したが、
AからZ全て、という要件は満たさなかったように思う)

すなわちこの頃のカメラ製造は電気・電子的な要素は何も
無く、「精密機械工業製品」であったから、当時の日本の
産業構造に良くマッチしていた訳である。

ちなみに「精密機械工業製品」であった、戦前から戦後の
カメラは「ブランド」という意味合いが強かったと思うが、
その後の電気→電子→デジタル化したカメラについては
1つのメーカーだけで製品作りが全て完遂できる訳も無く、
多数の専業部品メーカー等の協業により製品が作られる為、
今や「ブランド」の意味や価値は殆ど存在していない。

後年に私は、この時代のCANON製L(39)マウントレンズの
ジャンク品を2本ほど所有していたので、CANONのこれらの
ボディを買おうか? とも思ったのだが、そのレンズは
Lマウントの他機種でも勿論使用できたため、結局、
CANONのレンジ機の購入機会は無かった。
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上写真は、CANON ⅣSbのミニチュア玩具だ。

また、CANON 7系では、歴史的に有名なCANON 50mm/f0.95
(レンジ機では最大口径)レンズが付属しているセットが
良く中古市場に流通していたが、軽く20万円以上と、
非常に高価だった為、購入は見送った。

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1960年代にはキヤノンはレンジ機の生産を辞め、一眼レフに
転換する。これはニコンも同様であったが、ニコンの場合
レンジ機の名機「ライカ M3(1954)」を見て「歯が立たないと
思ったので一眼レフに戦略転換した」(NIKON Fが1959年発売)
という逸話が有名だが、キヤノンも同様だったかも知れない。

CANON一眼レフ製品の初期には、独自マウントRシリーズや、
特殊構造のEXシリーズがあったが、いずれもまだ黎明期の
一眼レフであり、実用的とは言い難い面もあっただろう。

1964年前後には、TOPCON RE SuperやPENTAX SPが発売され
他社一眼レフは実用レベルに到達したが、この頃のCANONでは、
FLマウントの一眼レフ、FXやペリックス等があったものの、
性能的な他社からのビハインド(遅れ)状態が続く。

ちなみに、この時代のRマウントやFLマウントは、後のFD系の
マウントのベースとなった物で、若干だがFD系と互換性があり、
カメラとレンズ、あるいは遥か後年のマウントアダプターとの
組み合わせによっては、装着・使用できるケースもある。
(注:使用出来ない場合が多い。個々に試してみるしか無い。
私も数本のFLレンズを所有しているが、本ブログでは未紹介だ。
私のデジタル機材環境では、上手く使用できないからである)
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1966年のFT QLでは、クイックリターンミラーを初搭載、
QLはフィルムの「クイック・ローディング」機構であり、
(失敗しやすい)フィルム装填が、簡略化できる。
やっとCANON機も実用的なレベルの一眼レフとなった。

いつまでも他社の後塵を拝する訳にもいかない、恐らくは、
この頃から「旗艦機開発戦略」が水面下で進行していた
事であろう。

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この1960年代、キヤノンは一眼レフのみならず、35mm判の
コンパクト機にも注力していて、「キヤノネット」シリーズ
を展開。シャッター優先AE機で価格も安価な故に人気機種と
なり、多数の派生機が1960年代を通じて発売されていた。

「電気化」機能を取り入れた事が、ひとつの技術革新であり、
それまで「精密機械工業」であったカメラ界の事業構造に
大きな影響を与えた。すなわち、それまでの時代で非常に
多数あった国内のレンジ機製造メーカーは、この構造改革の
時代に、その多くが(電気化が困難であった為)撤退する
事となる。

私は後年に、1965年製のQL17を所有していたが、個人的には
あまり実用性が高く無いと見なし、短期間で譲渡してしまった。

また、この1960年代は、OLYMPUS PENシリーズの大ヒットから
「ハーフ判カメラ」が人気で、CANONも「デミ」シリーズと
「ダイヤル35」シリーズで追従するが「PENがあれば十分」と
見なし、私はいずれも所有する機会に恵まれていない。

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さて、1970年代、これまでの時代のCANON製カメラ群
(特に一眼レフ)は、個人的には「実用範囲以下の性能」と
見なして、殆ど購入していなかったが、ここからは実際に
所有している機体を紹介しながらの説明だ。
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1971年 CANON F-1が発売される。
銀塩一眼レフ・クラッシックス第1回記事で詳細を解説して
いるが、CANON初の旗艦機で、かなりの高性能機である。

同時代のライバル機NIKON F2とともに、この時代を代表する
名機であり、CANONはこの旗艦機を開発した事で職業写真家層や
一般層に対して、ブランドイメージを大きく向上できたと思う。
(下写真は、F-1のミニチュア玩具。オリーブ塗装版)
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ただ、F-1は重厚長大な機体だ。まあ、その後のAF時代の
旗艦機程では無いものの、一般的な趣味撮影には適さない。

その問題については、同年発売のCANON FTb(QL)が存在し、
これは銀塩時代に所有していて、良く使ったカメラだ。
F-1譲りの高性能で、小型軽量でQL機構もあり、実用性が
高かったが、デジタル時代に入った頃に、F-1は残したが
FTbは処分してしまった。

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その後、1970年代中頃には世の一眼レフにはAE(自動露出)
機能が求められるようになった。CANONでのシャッター優先AEは
1960年代コンパクト機の「キヤノネット」や一眼レフの
EXシリーズからのお家芸であるから、その搭載は当然だが、
さらにCPU(マイクロプロセッサー/マイクロコンピューター)
を導入する事で、カメラはついに「電子化」する事となる。

(注:この時代以降での機械式では無い電気制御のシャッター
機構を一般に「電子シャッター」と呼ぶが、厳密にはそれらは
「電気制御式シャッター」であろう。ここで「電子化」とは
”デジタル(ロジック)回路の導入を示すもの”と定義する。
なお、後年のミラーレス時代での「電子シャッター」は、
これらとは、全く動作原理が異なる。この為、近年の機器
での機構は「撮像素子シャッター」と呼ばれる場合もある)
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ここでCPUの歴史を少し述べておく。

1971年、インテル社は世界初のCPU(マイクロプロセッサー)
である「4004」を発表。
その後の世の中の商品において無くてはならないマイクロ・
コンピューターが、ここで産声を上げた訳だ(ちなみに、
大型計算機は、IBM等が1950年代頃から実用化しているが、
マイコンでのこの技術革新は重要な歴史的価値を持つ)

この頃の日本は、大阪万博が終わり、マクドナルドが初上陸、
カップヌードルが新発売された時代だ。

ちなみに、この年の前後の流行歌(邦楽)は凄い!
「知床旅情」「おふくろさん」「花嫁」「わたしの城下町」
「また逢う日まで」「戦争を知らない子供達」「雨がやんだら」
「雨の御堂筋」「さらば恋人」「京都慕情」「水色の恋」
「ざんげの値打ちも無い」「恋人もいないのに」「女の意地」
「空に太陽がある限り」「琵琶湖周航の歌」「出発の歌」
「あの素晴しい愛をもう一度」「よこはま・たそがれ」
「17歳」「傷だらけの人生」・・ 
と、後年の世代に引き継がれている名曲がいくらでもある、
まるで、たったこの1年だけで”70年代ベストヒット歌謡曲”の
CDが出来てしまいそうだ。(勿論、当時は「レコード」だ)
実は、同様に洋楽や映画もこの年は凄いのだが、ここも挙げると
きりがない程だ、まあジョン・レノンの「イマジン」だけを
あげておこう。

まあ、日本の世の中はまだ完全に「アナログ」であったのだが、
デジタル時代が、すぐ目の前に来ているタイミングであった。

翌1972年に、インテルは、早くも8bit CPUの8008を発売、
そして1974年には、有名な8080が発売されている。
(同年、モトローラ社でもMC6800が開発された)

インテル8080は、後年1976年にNECより発売された
「TK-80」マイコンキットにも使われ、この時代から技術系
のマニアを中心に、一大「マイコンブーム」が起こる。


また、1978年には8080を使用した「スペースインベーダー」
がアーケート・ゲームとして社会現象的な大ヒットとなった。
このタイミングで、世間一般も、ついに「デジタル時代」に
突入した事となる。

1975年には、モステクノロジー社がMC6502を発売。
この6502は1977年にアップル社のAppleⅡとコモドール社の
PET2001に搭載されて非常に有名になった。(後年、1983年
には任天堂ファミコンでも6502互換CPUを採用)


1976年には、ザイログ社より著名な「Z80」が発売された。
インテルを退社した人達が、8080の改良版として開発した
CPUであり、後年に至るまで様々なPCや機器の組み込み用途
として用いられている超ロングセラーCPUだ。

Z80等を制御する機械語プログラム(ニーモニック)は、
「アセンブラ」とも言われ、これがこの時代の基本的な
プログラミング手法ともなる。その後の時代でのBASIC等の
インタープリターや、C等のコンパイラー言語とは全く異なる
原始的なもので、CPUの構造そのものを理解していないと
プログラミングを行う事が出来なかった専門的分野である。

(注:この時代から一部の技術者の間で技術用語の「語尾等
の長音」を「無駄である」と、省略する習慣が出てきている。
よってインタプリタ、コンパイラ等と、長音を省く記法や
話法も多いのだが、後年2000年代には複数の大手IT関連企業
等が「長音を省かない記法」を推奨した為、本ブログでも、
PCあるいはカメラ関連用語等において主に長音を省略せずに
記載している。例:コンピューター、フィルター、プリンター、
コントローラー等。ただ、この事は、さほどの強制力は無いし
例えば現代では「アセンブラ」という用語も、まず使われる事
は無いので、これに関しては、この時代の表記法のままだ。
しかし他の技術用語でも依然、長音を省く記載法をしていたら、
「古い時代の技術者だ」と見なされてしまう場合もあるだろう。
はたまた、今時、「メモリー」の事を、日本語の「目盛り」の
ようなアクセントで話をしていたら、笑われてしまう。
→先年、TV CMでもそういうナレーションがあった)

ちなみに、日本初のパソコン雑誌が何であったかは明確には
定義しずらいが、1976年~1977年にI/O、ASCII(アスキー)
月刊マイコン、RAM、のマイコン関連の四誌が刊行されている。
これは、初期国内パソコン(MZ-80Kやベーシックマスター)
の発売の少し前であり、海外のAppleⅡ等と同時代であるので、
なかなか先進的だとは思う(しかし既に「マイコン」としては
技術マニア層を中心に、ブームは加熱していた訳だ)

これらの雑誌には、CPUを動かす為のアセンブラプログラムや
さらに直接的な、16進数の英数字だけからなる純粋な機械語
(オペコード)が記載されていて、それを自身のマイコン等に
打ち込むと、ごく簡単なゲームのような物を動かす事も出来た。
(例:玉を壁に当てるテニス風ゲーム等)

インテルでは、1978年には16bitの8086が発売され、これは
後の1982年発売のNEC PC-9801に搭載され、もうその時代では
マニアだけのマイコンではなく、PC(パーソナル・コンピューター)
として世間一般にも認知されている。勿論、パソコンは急速に
企業や職場に普及して、「パソコンに触れないと仕事にならない」
という時代が急速に進んでいく訳だ。

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さて、そのようなCPU激動期の時代背景がわかったところで、
CANONは、いち早くこれをカメラに搭載しようとした。
時代や技術の変化からは当然であろうが、なかなか先進的な事で
あったと思う。これが上手くいけば、このデジタル革命について
いけないアナログなカメラメーカーは、いっきに大苦戦を強い
られてしまう。ライバルを蹴落すためにも、なんとかこの技術
革新を成功させなければならない。
まあ、熾烈な開発競争の世界だ・・
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CANONは他社に先駆け、いち早く1976年には、世界初の
CPU搭載カメラCANON AE-1を発売した。


このCPUはテキサス・インスツルメンツ(TI)社製の4bit CPU
との事だが詳細な型番は不明だ(専用部品だったかも知れない)
ちなみに、CPUをただ搭載しただけでは製品はできず、勿論
関連のメモリーやインターフェース等のデジタル設計、そして
それを動かすプログラム(ソフトウェア)開発も必要となる、
これはアナログな事業構造のメーカーでは、急にそれらに
対応するのは不可能とも言える。

例えば、この時代から40年も経過した2010年代後半になって
小学校での「プログラミング教育」の必修化が話題になって
いたが、この現代の時代になっても教育現場や父母は大混乱で
あろう。いままでの教育や勉強の概念とはまるで異なるからだ。

40年前に「ソフトウェア開発」などと言っても、ほとんどの
技術者はチンプンカンプンな話であり、一部のマイコンマニア
位が、それが出来たくらいである。(とは言え、マニアでも
ASCII等の雑誌に載っている機械語プログラムを自身のマイコン
にそのまま打ち込んで、ゲーム等を動かしていた程度であった。
プログラミングが出来た人は、ほんの一握りの数に過ぎない)

さて、CANON AE-1であるが、この機体は、かなりのヒット商品
となり、後年に大量の中古が安価に流通していて、私も一時期
所有していたが、あまりにポピュラーで「マニアックさに欠ける」
という判断で、すぐにCANON A-1(1978)に買い換えた。

----
A-1は、こちらもCPU搭載機であり、CANON初の両優先AE機で
実用性が高い高級機であるし、そこそこマニアックさもあった。
私はA-1は銀塩時代を通じて愛用したが、デジタル時代に入って
知人に譲渡してしまった。その理由は、CANON Aシリーズは
いずれもシャッター廻りの耐久性が低く、後年に残すべき
カメラでは無い(いずれ使えなくなる)と思ったからだ。

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この時代、1970年代のCANONコンパクト機は、鳴かず飛ばず
という印象があり、キヤノデート(1970~1973)が日付写しこみで
やや有名だが、これらはマニア的には魅力な機体では無かった。

コンパクト界全体では、1977年にKONICA「ジャスピンコニカ」
(C35AF)が世界初のAF機として発売されると、各社一斉にAF化に
追従、CANONでは「オートボーイ」シリーズを1979年から発売
開始(最初の機種、AF35Mは、初の赤外線アクティブAF方式)
以降、2000年代前半頃までの銀塩時代全般で、AFコンパクト機
として多数の派生機種を発売した。オートボーイ・シリーズは
一般市場では、そこそこ人気があったと思うが、個人的には
マニアック度に欠ける、と見なして1台も購入しなかった。

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さて、CANON 一眼レフの方だが、
1981年 旗艦F-1の後継機のNew F-1が発売される
(銀塩一眼レフ・クラッシックス第9回記事)
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旧F-1発売時に「今後10年は、フラッグシップを更新しない」
とCANONは宣言していたのであるが、宣言どおり丁度10年後だ。
その際、「機種名は、この機種が存在する限りF-1だ」とも
言われていたので、このNew F-1は正式には「F-1」である。
(注:ニコン旗艦機がF→F2→F3と機種名が変わった事への
対抗心であると思われる)
ただ、そんな子供の喧嘩のような言い分を言われても、消費者
や流通業界は混乱するばかりだ、勿論、New F-1やNF-1、旧F-1
等と、新旧機種は一般的には明確に区別されている。

このNew F-1はかなりの名機であり、銀塩時代を通じて愛用した。
当該紹介記事でも、なかなかの好評価が得られていて、勿論
現在でも大切に(動態)保管している。
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さらに、1980年代初頭には、新規のTシリーズが展開される。
この時代の「電子化」のイメージを推進する為、ワインダー
内蔵や、液晶パネル装備など近未来的な機能も搭載する。
デザインも従来の銀塩機とはガラリと変わり、そのデザイン的
な自由度を高める為か、プラスチックス成型品となった。

まあ、丁度世の中はデジタル化しつつあった。1970年代後半
でのCPUやPCの急速な発達は前述の通りだが、1979年には、
SONYから初代ウォークマンが発売、これは勿論アナログ製品では
あるが、世間一般ではまだデジタルとアナログの区別がつかない。

翌1980年には、YMO(イエロー・マジック・オーケストラ)の
(アナログ)シンセサイザーやデジタル・シーケンサー、リズム
マシーン等によるサウンドがヒット&話題となり、こうした
新技術を多用した電子音楽は後に「テクノ」と呼ばれる事となる。
テクノはファッション分野にも波及して新時代のミュージシャン
達の髪型は「テクノカット」と呼ばれて一般層に広まり、
街ではテクノカットでウォークマンを聞きながら歩く人達が
急増した。

1982年にはCDが発売、こちらは完全なデジタル構造であったが、
市場では旧来のアナログレコードから急速に置き換わるように
普及した。まあCDがデジタルかどうか、というよりも、レコード
と比較して圧倒的な利便性があったからだろう。
また、この時代1980年代には、電子楽器のシンセサイザーも、
アナログからデジタルに置き換わっている。
(注:いずれの音響機器も、最終的に聴く為の「音」に変換
する部分(D/Aコンバーター)以降は、勿論アナログである。
デジタルのままでは人間は音を聴けない。これは近年での
骨伝導イヤホン/スピーカーでも、広義にはアナログである)

世の中が急激にデジタル化していく状況であったから、
これがCANON Tシリーズ等のカメラのデザインのイメージに
波及しても、なんら不思議では無い訳だ。

ただ、カメラの撮影機能のデジタル化は、まだこの時代では
無理であり、普及は、ここから約15年~20年も後の事になる。
だから、この時代のカメラでは、デザイン的な部分だけで
デジタル時代の雰囲気を出していくしか無かった訳だ。

さらに、やや後年(1987~)のPENTAX SFシリーズも同様に
近未来的なデザインであったのだが、やはりプラスチッキーだ。
カメラマニアの間では、後年の中古カメラブームにおいても
こうしたプラスチッキーなカメラ群は「カメラらしく無い」と
嫌われていて、Tシリーズ初期や他社の同様な近未来イメージの
カメラの中古は、全くの不人気であった。

まあ結局、デジタルやテクノの先進的なイメージは、その当時で
いくら先進的であったとしても、技術の進歩は極めて速いから、
後年の視線で見れば、古くて陳腐なものに見えてしまう訳だ。
(他分野の例で言えば、CGアニメがそうだ。いくらその当時に
頑張ってCGを作っても、後年では、すぐに古く見えてしまう)

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さて、1985年、カメラ界を揺るがす大事件が起こる。
ミノルタから世界初の実用的レベルのAF一眼レフ「α-7000」
が発売された。これはカメラ界だけに留まらずに社会現象とも
なった。いわずと知れた「αショック」であり、本ブログでは
何度も何度も説明しているので詳細は今回は割愛する。

CANONも同年に「T80」の同社初のAF一眼レフを発売するが、
α-7000との性能差は明白で、このT80は、CANONにおける
「黒歴史」として闇に葬られる事となった。
(後年の「CANONカメラ製品」の販売店向け大型ポスター
には、T80は載っていなかった)
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αショックの翌年1986年、CANONは一旦MF機に後退し、
CANON T90を発売。この機体は、後年のEOSの原型となった
曲線的デザインであり、工業デザイナーのルイジ・コラーニ氏
の手によるものだと聞く。この機体は最後のFD高級機であり
高性能でもあり、私は銀塩末期まで愛用したが、デジタル
時代に入ってからマニアの知人に譲渡してしまっている。

一旦MFに後退したCANONであるが、FDマウントのままでは
AF化(電子化)は困難と見て、新規のマウントEF(通称EOS)を
採用し、急遽AF化と電子化(例:レンズ側には絞り環は無く、
カメラ本体のダイヤルで操作を行う等)を実現する。
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最初の機種は、EOS 650(1987年)であるが、AF化への対応が
かなり早かった点は特筆するべきであろう。ミノルタを除く
他社では、AF化した初期の製品は実用的なレベルには、まだ
達していない事が殆どであったのだ。

ただ、1つ大きな問題があり、新規のEFマウントが、旧来の
FDマウントと全く互換性が無かった点だ。

これはミノルタαでも旧来のMDマウントと互換性が無いが、
新規のαの性能が圧倒的であった為、その点は不問とされた。
また、NIKONとPENTAXは旧来のF(Ai)、Kマウントのまま
AF化を進めていた。


しかしCANONの場合、新旧F-1、A-1、T90等の実用的名機が
まだまだ現役である。これらのシステム用に沢山購入した
FD系レンズが使えなくなるのはユーザーにとって痛い。
当然ながらFDユーザーからはブーイングの嵐となり、
ブランドイメージを落としてしまった。

・・と、旧来、CANONのこの時代の歴史を本ブログで解説する
上で、この問題を良く取り上げていたのだが、近年、さらに
細かく分析してみると、もう少し違う側面が見えてきた。

前述のように、確かにCANON FDマウントには名機が多い。
しかし、それらは、1987年時点でユーザー層に使われていた
のであろうか?

具体的には、新旧F-1,A-1,T90のどれもが高価なカメラだ。
職業写真家層はさておき、これらの機種を買える消費者は
かなりのハイアマチュア層か富裕層だ、そのユーザー比率は、
さほど多くは無い。

一般初級中級層(消費者)が買えるクラスのCANON機は、
AE-1(1976)や、その改良機AE-1P(1981)に過ぎない。
そしてT50(1983)やT70(1984)は、前述のように実験的かつ
近未来的カメラであり、爆発的なヒット商品とは言えない。

これらの初級中級機を買うユーザー層は、銀塩時代での例に
漏れず、交換レンズを殆ど購入しない。恐らくはFD系の50mm
標準レンズ、又はFD35-70mm等の標準ズームレンズを1本だけ
所有している程度であっただろう。

その根拠として、後年の中古市場でCANON MF初級一眼が出て
きた場合、たいてい上記のいずれかのレンズとセットであった。
また、CANON FD系標準レンズは開放F値の差等で、極めて種類が
多く、ここで書ききれない程であるし、35-70mmズームですら
開放F値の差で3種類が存在していたし、勿論少し異なる焦点域
の標準ズームも多数ある。つまり、これらの標準系のレンズしか、
現実的には、さほど売れていなかったと思われる。
(実際にも、他のFD系高性能レンズは、あまり中古市場には
流通していない)

よって、FDからEFにマウントが切り替わったといっても、
沢山のFD系レンズを持て余すユーザーの比率はさほど多くは無く、
殆どの初級中級ユーザーは、標準レンズや標準ズームが1本だけ
ついたカメラを1台下取りしてしまえば、それで良かった訳だ。

まあつまり、ミノルタのケースとほぼ同じであり、ミノルタでも
αのAF時代以前の旧機種Xシリーズは(宮崎美子さんCMのX-7を
除いて)ヒット商品は少ないし、上級層にあまり人気のある
カメラも無かったのだ、キヤノンも同様であったのだろう。

そうであれば、マウントの変更が一大事であったのは、本当に
限られた範囲での、新旧F-1等のユーザーでFD系レンズを多数
所有している場合のみだ。A-1は既に10年近くも古い機体だし
T90は出たばかり、マウント変更するならば、このタイミング
しか無い、という感じであったのかも知れない。

まあ、新旧F-1を使うような職業写真家層、上級層又はマニア層
は市場のオピニオンリーダーであり、つまり「声が大きかった」
から、このマウント変更の問題は後年にまで「極悪の所業」の
ように過剰に伝えられてしまったのかも知れない・・

----
さて、EOS初期のカメラは、あまり魅力的な機種は無く、加えて
型番が問題だ、それはEOS 650,620,750,850,630・・と
規則性の無い番号であり、上級マニアですら、それらの個々の
カメラの仕様の差異をすらすらと言える人は居ない。
この型番体系をまずすっきりしたのは、EOS初の旗艦機である。
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1989年 EOS-1(/HS)
銀塩一眼レフ・クラッシックス第14回記事で紹介。

銀塩一眼最重量級(HS仕様時)という重厚長大な機種だが、
高性能である事は確かだ。重くて滅多に持ち出す事が出来ない
のは趣味撮影では重欠点と言えるが、これは完全な業務用途機だ。

新旧F-1等を使っていてFDマウント廃止に文句を言っていた
上級層の大半も、この圧倒的高性能の機体を見てしまえば、
もう黙ってFDを捨てて買い換えるしか無かった事であろう。
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1989年 EOS-RT
銀塩一眼レフ・クラッシックス第16回記事で紹介。

機体そのものはEOS 630系の中級機だが、ペリクルミラーを
採用し、レリーズタイムラグを8mSと極端に短くした特殊機。
これもまたユニークであり、魅力的なカメラだ。

当該紹介記事では色々と欠点をあげてはいるものの、総合的
には悪く無い。私の感覚では、EOS-1HSとRTの2機種があれば
FDマウント廃止の件はもう不問であり、新規のEOSに乗り換え、
新旧F-1等は、もう趣味の撮影に使えば良い、そんな感じであった。
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その後の歴史だが、EOS-1(HS)はシャッター音が極めてうるさい
カメラであった、これは当然、カメラを業務用途等で実用的に
使うユーザー層からはクレームが来る。(まあ、ユーザーから
の前に、撮影現場で、関係者からクレームが来る・汗)
ここからCANONは一眼レフの静音化を目指す事となる。

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1990年から1991年にかけ、EOS 10,700,1000が発売
されるが、あいかわらず型番と性能/仕様が結びつかない。

それと、この頃はバブル経済のピークである。この少し前に
企画され開発がスタートした機種群は過剰とも言える機能を
次々とカメラに搭載、これはCANONに限らず、その急先鋒は
ミノルタであったのだが、こうした、実際に使わないまでの
多機能を詰め込んだカメラは「バブリーなカメラ」と呼ばれ
バブル崩壊後の消費者層のニーズには合わず、極めて不人気
となってしまったのだ。

1991年 EOS 100 QD
この機体は所有していた。初の「サイレントEOS」であり、
歴史的な価値が高い。これは勿論、進めていた「静音化」を
具現化したものである。性能的にも悪いカメラでは無かったが、
後年に、写真を始めた知人に譲渡している。

1992年 EOS 5 QD
初の「視線入力AF」搭載機。高性能な人気機種であり後年の
中古市場でも良く流通していて周囲の知人も多く所有していた。
ただ、個人的には、この「視線入力AF」を活用する撮影技法が
まったく思いつかず、「実用価値なし」と厳しく判断して
この機種を購入する事は無かった。
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さて、中途半端なタイミングであるが、ここで記事文字数が
持論で決めている限界を超えてしまった。
以降のCANON機の歴史は次回中編記事に続く。


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