さて、新シリーズの開始だ。
本シリーズでは、所有している銀塩コンパクトカメラ
(ハーフ判、35mm判、APS判等)を順次紹介していく。
とは言え、およそ50台以上も持っていた銀塩コンパクト機の
大半は、デジタル時代に入って「もう使わないであろう」と
譲渡・処分してしまっている。残っているのは十数台のみだが、
いずれも歴史的価値のあるマニアックなコンパクト機ばかりだ。
本シリーズでは、1記事に2機種づつ数回に渡って連載を行う
事としよう。
シリーズ1回目は、「オールド編」という事で、1960年代に
発売された2機種を紹介する。
まず1機種目
1968年:OLYMPUS-PEN EES-2
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30mm/F2.8の単焦点レンズを搭載したハーフ判カメラ。
1959年~1986年頃までの長期に渡って生産が続けられた
ロングセラー大ヒットカメラである「PENシリーズ」の
中期の代表作の1つとも言える機体である。
本シリーズ記事では、その紹介カメラでは写真は撮らない。
各々のカメラは完動品ではあるが、さすがに現代でフィルム
の使用は厳しい。
そこで「銀塩一眼レフ・クラッシックス」記事と同様に、
そのカメラで撮った雰囲気を味わう為に、デジタルカメラの
「シミュレーター機」を用意し、それで撮影した写真を交え
ながら記事を進めていく。
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今回のシミュレーター機は、PEN EES-2と同一のテイストの
オリンパスのμ4/3機の、E-PL2 (PEN Lite 2)と、
レンズはスペックが同じであるSIGMA 30mm/F2.8 EX DN
を使用する(注:このレンズ構成はテッサー型では無いし
換算画角も、こちらがやや長目だ)
当時はモノクロ撮影が主である為、シミュレーター機も
モノクロモードを用いる。
後、ハーフ判フィルムの縦横比はフルサイズとは異なる。
正確には約24:17であるが、シミュレーターはμ4/3機
なので数値が近い4:3のアスペクトで撮影しよう。
さて、ここでPENの誕生に係わる開発コンセプトとか
PENシリーズの歴史等を書いて行くのが本来なのだが・・
銀塩PENは歴史的名機であり、PENシリーズや、開発者の
米谷美久氏の話は、沢山の書物、文献、WEB等で、いくら
でも参照ができてしまう。
まあ、カメラマニアにおいては「オリンパス」の銀塩カメラの
製品群は無視する事ができない。特にPENやOM、そして米谷氏に
ついては、上級マニア層の間では、殆ど「神格化」されている
と言っても過言ではなく、それ故に、関連する資料や情報が
比較的目の届くところに沢山残っている訳だ。
それらの情報を集約して記事にまとめる事は難しく無いが、
それでは「一次情報」にはならない。
一次情報とは、最初に発信される内容の情報であり、SNS
(ブログ)をやる上では、個人からの情報発信が可能である
という観点で、その要素が無いと殆どSNSの利用意義が無いのだ。
つまり、どこかに出ている情報を引用したり(たとえ、まとめた
としても)しても、あまり意味が無い、という事である。
オリジナリディが最も重要だ、と言い換える事も出来るだろう。
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さて、という事で、本記事では、まずPEN発売時の当時の
日本の世情から考察していく事としよう。
PEN発売前夜、1950年代の半ばであるが、戦後の復興も
概ね完了し、高度成長期にさしかかった頃である。
1954年には、初代の「ゴジラ」が公開されている。
この映画はモノクロだが、これを見ると当時の世情もわかる、
逃げ惑う人々の中にはまだ和装の女性も多いが、主人公級は
洋装であり、その家庭には白黒TVも一応あったし、自家用車も
既に走っている時代だ。
この年、カメラ界には「ゴジラ」並みのモンスターが出現している、
それは、ライカ(エルンスト・ライツ社)の「M3」である。
この時代のカメラは「精密工業製品」であったので、当時の日本
の産業構造としては得意分野だ、だから1950年代には非常に
多数のカメラメーカーが日本にもあったのだが、外国製品や
他社製品を模して作っただけのものも多く、その品質は玉石混合
という時代であった。
それらの、ある意味低性能、低品質なカメラに比べると、当時の
「ライカM3」の品質や性能は圧倒的で、まさしく「ゴジラ」級で
あったと思う。これは日本のカメラ界に激震を与え、たとえば
ニコンでは、それまで作っていたレンジ機のSシリーズ(基本的
には西独製CONTAXを模したカメラだ)を、ライカの後追いは
困難と諦め、一眼レフへの開発方針の転換を行う。そして数年後
の1959年の名機「NIKON F」の発売に繋がる歴史だ。
ただ「ライカM3」は非常に高価なカメラだ、発売当時の定価は
23万円もしていた。
当時の物価は、商品によって異なるが、だいたい現在の13~15
分の1くらいなので、「ライカM3」の価格は、およそ現在の
300万円位に相当する。
ちなみに、これは戦前の「CONTAX」の価格を現代の価値に換算
しても同じく300万円位となるのだが、以前から良く言われて
いて、現代に至るまでカメラマニア等の間で語り継がれている
「コンタックスやライカで家が1軒建った」という話がある。
現代の感覚では建築費は数千万円なので、この話はすぐには
信じられず、私もちょっと調べてみたのだが、確かにそれらの
カメラの価格は現在の300万円程度だ。では300万で家が建つか?
というと、戦前、1930年代であれば「文化住宅」という安価な
建築スタイルであれば、それは可能であった(買えた)模様だ。
しかし1950年代の高度成長期の300万では家は建たない事で
あろう。
結局あまり信憑性の無い話だが、それらのカメラのオーナーの
マニアや富裕層等は、発売後、50年~70年たっても、
マ「昔は、このカメラ1台で、家が一軒建ったのだぜ」
と言い続けていたので、周りの初級マニア等も「へ~っ」と、
その話を聞き続け、現在に至る、という感じなのだろう。
ただ、M3はともかく、戦前の話については、当時のドイツは
軍事国家であったから、カメラも「光学兵器」と見なされ、
あえて輸出を制限する為の高値であった可能性も高い。
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さて、ゴジラの時代から数年経った1958年、この頃の雰囲気は
映画「ALWAYS 三丁目の夕日」を見ると非常に分かりやすい。
建設中の東京タワー、都電、オート三輪、などの、なんだか、
ごちゃごちゃしているが活気のある時代だ。
この頃の物価は少し上がって、現代の12~14分の1程度だ。
ちなみに店舗で食べるラーメンが45円、すでに喫茶店もあって、
コーヒー1杯が50円であったと聞く。
翌年に発売を控えた「NIKON F」は開発が進んでいた事で
あろう、そのレンズ付き販売の目標価格は、およそ7万円だ。
これは現代の価値で80~100万円程度に相当する。
依然、この時代のカメラは、現代の感覚では高価ではあるが、
この頃は高度成長期であり、「カメラが欲しい」というニーズは、
一般層にも確かに存在していた。
この頃、オリンパスでは一般大衆向けの普及カメラを企画した。
目標価格は6000円、これは現代で言う7万円台の商品だ。
やはり高価であるとは言えるが、当時の他の高性能カメラから
比べると、ずいぶんと格安だ。
それと課題はフィルムの価格だ。当時の価格の資料はあまり
残っていないが、まず35mm判のカラーフィルムは発売された
ばかりで、現像代が最初から組み込まれているが、恐らく非常に
高価だ。(推定だが、現在の7000~9000円相当にもなる)
モノクロ(白黒)フィルムは、普及が始まってはいたのだが
これも価格は不明、35mm判20枚撮りで推定150~170円位と
すれば、フィルム代だけで現在の2000円位となる。つまり
現像代を含めると、1枚撮るのに現在の価値で100~150円
ものコストがかかる事となり、現代の(高価な)インスタント
フィルムのおよそ2倍だ。
よって、この「新型オリンパスカメラ」(=ペン)は、撮影コスト
の低減も、また普及の為のコンセプトとしていて、ハーフ判、
つまり2倍の枚数を撮影できるように決定されたという事だ。
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余談だが、まあ、こういう世情であるから、一般ユーザーには
「カメラは高価なもの、一生の資産。そして写真は、ハレの日
(重要な日、重要な出来事)の際に、数枚だけ慎重に撮るもの」
という感覚が「常識」として定着していった訳だ。
その後約60年の間に、カメラは恐ろしく進化した。
ここで一々説明する必要も無いが、今やカメラは「精密工業製品」
ではなく、デジタル化された一種の家電製品であり、消耗品で
あるとも言える。
が、実はこの間のユーザー層はあまり変わっていない・・
というか、同じ人物である場合もある。
1950年頃のベビーブームの団塊世代は、現代でもまだ70歳代だ、
彼達シニア層が、高価なカメラをありがたり、あるいは1枚の
写真を撮影するのに時間をかけて慎重に撮り、かつ、ハレの日や
珍しいもの、貴重なものばかりを撮りたがるのは、この時代の
感覚が、まだ強く残っているからであると考えられる。
カメラファンの世代が引き継がれて変わっても、このあたりの
感覚は、指導とか様々な話とかにより受け継がれていく。
現代の若いカメラマンにも多かれ少なかれ、この1950年代の
感覚が残ってしまっているのだ。
すなわち、カメラの中身が大きく変化しても、若い頃に学んだ
「価値観」は変化しようが無いのだ。
この「大きなズレ」は、私は、デジタル時代になってから顕著に
感じるようになってきている。デジタルカメラは昔のカメラとは
全く別物だ、撮り方も被写体も、撮った写真の用途もまるで違う、
けど、世間一般層はそうでは無かった。
まあ、現代でこそ、SNSや携帯・スマホカメラの普及等により、
写真を映像コミュニケーションの一環と捉えるようになったのは
若い世代の人達の間では常識だ。
しかしデジタル時代に入ってすぐの2000年代では、まだまだ
そういう考え方は一般的ではなく、世の中の普通の感覚は、
フィルムの、しかも1950~1960年代の概念のままであったのだ。
今なおその感覚は残っているかもしれない。ビギナー層が高価な
最新型高級機を買うのは、カメラが一生物の資産である、という
昔からの感覚でのニーズであろう。ただ、勿論現代は時代が違う、
超高価なフラッグシップ機ですらも、10年もたてば数万円という
二束三文の相場で取引されているのだ、デジタル機の資産価値
とは、そんなものである。だがビギナー層はそれがわからない。
私は「減価償却の法則」をデジタル時代に入ってすぐ考察し
それを守るようにしている。すなわちデジタル一眼レフ等は、
購入時価格を撮影枚数で割って、それが3円となれば「元を取った」
と見なすことにしている。つまりデジタルカメラは完全な消耗品
であるという事だ。(注:近年のカメラ価格高騰により、
そのルールは現在、守り難くなってきてしまっているが、
消耗品である事は確かであり、10年を超えて同じデジタル機
を使う事は、まずできない→仕様老朽化寿命)
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さて、PENの話に戻るが、1959年に初代のPENが発売された。
価格は6800円だったと聞く。当時の物価を12分の1と見なせば、
これは現代での約8万円だ。
PENはハーフサイズ判であるが、レンズはテッサー型3群4枚の
28mm/f3.5(フルサイズ換算約40mmの準標準)の、高性能
レンズを搭載、ハーフ判からの2倍の引き伸ばしに耐えうる
画質を実現していた。
徹底した小型化思想により、小型軽量のみならず随所にコスト
ダウンも果たしたが、それによる性能は犠牲にしていない。
このあたりは、ほとんど天才設計者である「米谷」氏の功績
であるとは言えるが、オリンパスにはこの歴史がある為、
後年、2010年代に、デジタルのPEN、すなわちμ4/3陣営に
対する批判、例えば「フルサイズの方が圧倒的に画質が良い」
があった時にも、「μ4/3はセンサーが小さくてもシステムや
レンズの性能は一切妥協していない」と反論した訳だ。
まあでも、この話はμ4/3の台頭を「脅威」と思った勢力からの
攻撃意見であると思われ、μ4/3が箸にも棒にもかからないので
あれば、無視しておけば良かった事であろう。
つまらない業界内の「舌戦」だ、一般ユーザーは、そんな事は
気にしてはならない。
さて、このPENの時代には「ハーフサイズだからダメだ」という
市場からの意見は幸いにして無かった模様である(逆に言えば、
現代は恐ろしい世の中だ、他者が成功しそうなのを見れば、
情報戦略で足をひっぱろうとする訳だ。でも実際には、そういう
事をやる人が悪いのでなく、世の中に多数流れる情報の中から
真実を見抜くことができず、安易に他人の意見に流されてしまう
「単なる情報受信者」の一般大衆にも重い責任があるのだと思う)
こうした世情から、ペンシリーズは、世の中のニーズをズバリと
突く形となって、当然ながら大ヒットした。
その後、驚異のロングセラーとして、派生機を含め、25年以上、
1986年位まで生産が続く事となった。
(注:この頃のPENシリーズの総生産台数は「1700万台」と
言われていたが、2018年になって「実は800万台でした」
と、オリンパス社発表により記録が下方修正されている。
まあ、とんでもなく多く売れた「ASAHI PENTAX SPシリーズ」
(知人のマニアが50台所有していた)でも、約350万台の
販売台数なので、それの5倍は多すぎるデータではあった)
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さて、今回紹介機「PEN EES-2」であるが、三丁目の夕日の時代
からおよそ10年、高度成長期のまっただなかに生まれた製品だ。
すでにヒットを続けていたPENシリーズに小改良を続けて完成度
の高いカメラとなっている。
当時、東京オリンピック(1964年)はすでに終わり、東海道新幹線が
走り、高速道路がどんどん建設され、大阪万博(1970年)の開催を
待ち望む声が大きかったであろう。しかし反面「70年安保」を
争点として学生運動が激化した時代でもある。
世の中には「ブルーライト・ヨコハマ」が流れ、数年前からの
グループサウンズの人気もまだ残っている。
霞ヶ関ビルが建ち、12月には三億円事件が起こった。
宇宙にはロケットが飛び、翌1969年には人類が初めて月に降り
立った。この「アポロ」を見ようと、各家庭ではカラーテレビを
こぞって購入したのだ、これは10万円以上もする高額な商品で
あったが、所得もそれなりに増えていた。
当時の物価は現代の1/4から1/5程度だ。
ちなみに、即席ラーメンが1袋30円、レトルトカレーが80円だ
(レトルトカレーは出たばっかりで、さすがに少し割高か?)
この PEN EES-2の発売時価格は12800円だったとの事であり、
現代の価値では、およそ5万円台の商品だ。
これまでの時代感覚と比べると、ずいぶん価格がこなれてきていて、
買いやすくなっていたと想像される。まあ物価の上昇よりも所得の
伸びが大きいから、「モノ」が沢山売れた時代である。
(現代ではモノがあふれすぎ、逆に売れ難くなってきている)
このPEN EES-2は、私は「第一次中古カメラブーム」の時代の
1990年代に購入した。当時、PENシリーズは中古市場でも人気
商品であり、特にレンズ交換型のPEN Fシリーズは、かなりの
高額で取引されていたのだが、コンパクトタイプのE型系列は
そこそこ安価で、本機は8000円で購入している。
勿論1990年代には本機にフィルムを入れ、実際に使っていた。
ハーフ判ゆえに、カメラを横位置で構えても写真が縦位置と
なるのは当初戸惑ったが、慣れればどうという事は無い。
電池が不要な「セレン露出計」方式は、やはり便利さを感じる。
ピントはMFだがゾーンフォーカス方式であり、人や山の絵に
ピントを合わせて撮れば良いので、ここも簡便だ。
まあピント精度はあまり無いのだが、優秀なレンズとあいまって
上手くピントが当たれば、そこそこ良く写った。
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圧巻はその現像時だ。1990年代当時の流行で「ゼロ円プリント」
というものがあり、600円前後の定額料金を払えば、現像代
そしてL判同時プリントがついてくる。DPE店によっては、
ノーリツ鋼機製のQSS(自動現像機)を導入していて、写真の
サムネイル一覧の「インデックス・プリント」もついてくるし
さらに、フィルム1本(ISO100、24枚撮り)をタダでおまけに
つけてくれる事もあった。
まあ、そういうビジネスモデル(現像代の薄利多売)であった
からなのだが、それにしてもPENの発売時とは世情がまるで違う。
PEN EES-2 に36枚撮りカラーネガを入れて、かつフィルムを
ぎりぎりで装填すると、およそ77枚程度の撮影ができる。
これをゼロ円プリントに出すと、80枚近くの写真がドサッと
手渡されるのだ、それで600円、おまけのフィルムまで貰える。
DPE店にとってば大赤字だろうが、まあそういうシステムなので
こちらは有効活用するだけだ。
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最後に本機EES-2を9項目で評価してみよう、なお評価項目の
詳細は他シリーズ記事と同様なので割愛する。
OLYMPUS PEN EES-2 1968年
【基本・付加性能】★★☆
【描写力・表現力】★★★
【操作性・操作系】★★★
【質感・高級感 】★★☆
【マニアック度 】★★☆
【エンジョイ度 】★★★☆
【購入時コスパ 】★★★★ (中古購入価格:8,000円)
【完成度(当時)】★★★★
【歴史的価値 】★★
★は1点、☆は0.5点 5点満点
----
【総合点(平均)】3.0点
評価点は、ぴったり平均点の3点、まあマニア向けというよりは
大衆向け一般機の代表格とも言えるカメラであろう。
歴史的価値はPENシリーズ全体であれば、もっと高くなるのだが
本機はシリーズ中期の機種であり、少し低目の評価とした。
ただ、歴史の証人としての役割は高く、カメラマニアであれば
本機である必要は無いが、PENシリーズのいずれかは、必ず
抑えておかなければならないと思う。
---
さて、PEN EES-2の話が長くなりすぎたが、
ここで今回紹介の第二の機種に進もう。
Rollei 35(テッサー40mm/F3.5 搭載)
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1967年に発売された海外製高級コンパクト。
舶来品なので値段は高い、当時の定価は69000円と高価であり
当時の物価を現代の1/5~1/6程度と見なせば、これは
現代の価値で30万円台後半の商品となる。
このローライ35を購入するのは、当時でも「ブルジョワ層」
であったという逸話を良く聞くのだが、まあそれは当時の話だ、
私は1990年代の中古カメラブームの際にこれを購入したが、
その時代であれば、中古は数万円の相場であり、ちょっと
無理をすれば買えない訳では無かった。
本ローライ35のシミュレーター機は適切なものが無く迷ったが、
フルサイズ・ミラーレス機SONY α7と、レンズはロシア製
「インダスター50-2」 (テッサー型 50mm/F3.5)を
使用してみよう。レンズが作られた背景こそ異なるが、その経緯
はいずれも、ツァイスのルドルフ氏により1902年に発明された
名レンズ「テッサー」を源流としている。
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ちなみに、テッサーの特許が切れた1950年代以降においては、
前述のオリンパス・ペンを始め、本ローライ35、あるいは世間の
多種多様のコンパクト機や小型カメラに、テッサー型のレンズが
採用されていて、テッサー構成では無いレンズを搭載している
カメラを探す方がむしろ珍しかった時代である。
そういう点では、コーテイング性能の良否などはあるものの
この時代のオールドコンパクトは、正しく使えば、その描写力は
似たり寄ったりである、とも言えるかも知れない。
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さて、本機ローライ35の価格が高い理由だが、これはまず
ブランド部品を惜しげもなく使っていることで「付加価値」が
高いからだ。
レンズは、テッサーと言えどコピー品ではなく、本家「ツァイス」
製(注:「T*(スター)」コーティングでは無い)であるし、
露出計は単体露出計ブランドとして有名な「ゴッセン」製である。
シャッターもまた「デッケルマウント」で著名なデッケル社製だ。
(注:デッケルは本来はシャッターメーカーである)
これらの「一流の部品」を、恐らくは当時世界最小と言える
超小型のボディに詰め込んでいて、なんと言うか「ギギュッと
濃縮された凄み」を感じてしまうカメラである。
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そうしたブランド力と企画コンセプトによる「付加価値」が、
本機が高価である所以だが、ちょっと高価すぎたかも知れない。
本家ドイツでの流通価格までは調べていないが、おそらくは
もっと安価だろう。だが当時の日本においては「舶来品」は
憧れの高級品であり、高い値付けになっていたのだと思われる。
本ローライ35の長所は、説明した通りの濃縮された高級感であり、
レンズの性能もあいまって、そこそこ良く写るのも特徴だ。
絞り値やシャッター速度も、マニュアルで自在に制御できる、
この時代の超小型コンパクト機としては考えられない高性能だ。
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短所だが、まずピントが目測である事だ、
光学式ファインダーはあるが、ただの素通しのガラスであり
構図の確認しか出来ず、ピント距離がわからない。
ピントリングに距離指標は一応ついているのだが、しかし
撮る側としては、目の前にある被写体が3m先なのか、4mの
距離にあるのか、ちょっと自信が持て無い事であろう。
せっかくの高性能レンズだ、正しくピントを合わせたい、
けど、その方法が無い。
そこで私はこのカメラを使う際には、他に一眼レフを持ち出して
そこでピントをAFやMFで合わせ、その一眼のレンズの距離指標
を見て、ローライ35にその設定を移して撮っていた。
面倒な作業だが、まあ、のんびり撮影するフィルム時代であるし
1枚撮る事の重みは、現代のデジタル時代とはまるで違う。
現像後にピンボケ写真を量産してがっかりしたく無いのであれば
撮影時の多少の手間はやむを得ない。
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が、後年では、もっとエキセントリックな方法を考え出した、
それは「建築用超音波距離計」を使用したのだ。
そう聞くと、なんだか凄そうな機械かと思うだろうが、これは
2000年位にホームセンター等で4000~5000円で売っていた
電池駆動式のポータブルな機械だ。しかし計測精度は高く、
数十m程度迄の距離を1mm単位で精密に測る事ができる。
確か、ごく初期の本ブログでも紹介した事があったと思う、
「超音波距離計」なるものを知らない周囲のカメラマニア達に
「これで美女のスリーサイズがわかる」と嘘の冗談を言ったら
バカ受けして、皆が欲しがった、という実話を書いた記事だ。
今でも所有しているが、どこにしまったのか?見つからない。
まあ、こういう変な機械を持ち出してまで撮りたいほどに
ローライ35は魅力的なカメラであったという事だ。
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弱点の続きとしては、このカメラの操作性はあまり良く無い。
いや、基本的なシャッターや絞りの調整は、内蔵の露出計
(追針式)もあるので、さほど困難では無いのだが・・
その操作のやり方が、小型化の弊害と、このカメラ独自の
操作性の設計コンセプトで、他の一般的カメラと大きく異なり、
使い難いのだ。
例えば、外付けフラッシュはカメラを上下ひっくり返さないと
使えない(!)
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フィルムの巻き戻し方も、フィルム交換(底蓋引き出し式だ)も
一見しただけでは良くわからない。撮影後のレンズの収納方法も
わからないし、露出計の電池の場所も交換のしかたもわからない。
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いずれも知って、慣れないと、初見だけではまず使う事が出来ない
カメラである。しかし、それがまたマニア心をくすぐるのだ、
つまり「これはオーナーで無いと使いこなせないカメラだ」
という優越感を得る事が出来るカメラな訳だ。
相当に「屈折した」カメラではあるが、まあ、マニアックである
とは言えるであろう。
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最後に本機ローライ35を9項目で評価してみよう。
Rollei 35 1967年
【基本・付加性能】★★★★
【描写力・表現力】★★★★
【操作性・操作系】★☆
【質感・高級感 】★★★★
【マニアック度 】★★★★☆
【エンジョイ度 】★★
【購入時コスパ 】★★☆ (中古購入価格:20,000円)
【完成度(当時)】★★★
【歴史的価値 】★★★★☆
★は1点、☆は0.5点 5点満点
----
【総合点(平均)】3.3点
まあ総合的には悪い評価では無いが、クセのある設計が弱点と
なっていて、やや使い難く、名機とは呼び難いかも知れない。
なお、現代でも中古で入手は可能だが、若干高価だ。
レンズは、テッサー型の他、よりシンプルなトリオターや
複雑なゾナー型の製品もあり、生産拠点もドイツとシンガポール
があり、仕様や生産国で中古相場に差が出る。
ゴールド仕上げ等外装が異なるバージョンもあって、一部の
レア品はコレクター向けに非常に高価な相場となっている。
実用価値はあまり無いので、無理して入手する必要性は少ないが
本機同様の初期型ならば2万円程度であると思う。
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なお、本機は水銀電池を使用するが、それは現代では生産中止だ。
代替電池の場合は、電圧が少し異なり、露出計に僅かな影響が
出るが、ネガフィルムであれば問題なく許容範囲となる。
----
今回の「銀塩コンパクト・オールド編」記事はこれにて終了、
次回記事でも、引き続き銀塩コンパクト機を2機種紹介する。
本シリーズでは、所有している銀塩コンパクトカメラ
(ハーフ判、35mm判、APS判等)を順次紹介していく。
とは言え、およそ50台以上も持っていた銀塩コンパクト機の
大半は、デジタル時代に入って「もう使わないであろう」と
譲渡・処分してしまっている。残っているのは十数台のみだが、
いずれも歴史的価値のあるマニアックなコンパクト機ばかりだ。
本シリーズでは、1記事に2機種づつ数回に渡って連載を行う
事としよう。
シリーズ1回目は、「オールド編」という事で、1960年代に
発売された2機種を紹介する。
まず1機種目
1968年:OLYMPUS-PEN EES-2
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1959年~1986年頃までの長期に渡って生産が続けられた
ロングセラー大ヒットカメラである「PENシリーズ」の
中期の代表作の1つとも言える機体である。
本シリーズ記事では、その紹介カメラでは写真は撮らない。
各々のカメラは完動品ではあるが、さすがに現代でフィルム
の使用は厳しい。
そこで「銀塩一眼レフ・クラッシックス」記事と同様に、
そのカメラで撮った雰囲気を味わう為に、デジタルカメラの
「シミュレーター機」を用意し、それで撮影した写真を交え
ながら記事を進めていく。
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オリンパスのμ4/3機の、E-PL2 (PEN Lite 2)と、
レンズはスペックが同じであるSIGMA 30mm/F2.8 EX DN
を使用する(注:このレンズ構成はテッサー型では無いし
換算画角も、こちらがやや長目だ)
当時はモノクロ撮影が主である為、シミュレーター機も
モノクロモードを用いる。
後、ハーフ判フィルムの縦横比はフルサイズとは異なる。
正確には約24:17であるが、シミュレーターはμ4/3機
なので数値が近い4:3のアスペクトで撮影しよう。
さて、ここでPENの誕生に係わる開発コンセプトとか
PENシリーズの歴史等を書いて行くのが本来なのだが・・
銀塩PENは歴史的名機であり、PENシリーズや、開発者の
米谷美久氏の話は、沢山の書物、文献、WEB等で、いくら
でも参照ができてしまう。
まあ、カメラマニアにおいては「オリンパス」の銀塩カメラの
製品群は無視する事ができない。特にPENやOM、そして米谷氏に
ついては、上級マニア層の間では、殆ど「神格化」されている
と言っても過言ではなく、それ故に、関連する資料や情報が
比較的目の届くところに沢山残っている訳だ。
それらの情報を集約して記事にまとめる事は難しく無いが、
それでは「一次情報」にはならない。
一次情報とは、最初に発信される内容の情報であり、SNS
(ブログ)をやる上では、個人からの情報発信が可能である
という観点で、その要素が無いと殆どSNSの利用意義が無いのだ。
つまり、どこかに出ている情報を引用したり(たとえ、まとめた
としても)しても、あまり意味が無い、という事である。
オリジナリディが最も重要だ、と言い換える事も出来るだろう。
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日本の世情から考察していく事としよう。
PEN発売前夜、1950年代の半ばであるが、戦後の復興も
概ね完了し、高度成長期にさしかかった頃である。
1954年には、初代の「ゴジラ」が公開されている。
この映画はモノクロだが、これを見ると当時の世情もわかる、
逃げ惑う人々の中にはまだ和装の女性も多いが、主人公級は
洋装であり、その家庭には白黒TVも一応あったし、自家用車も
既に走っている時代だ。
この年、カメラ界には「ゴジラ」並みのモンスターが出現している、
それは、ライカ(エルンスト・ライツ社)の「M3」である。
この時代のカメラは「精密工業製品」であったので、当時の日本
の産業構造としては得意分野だ、だから1950年代には非常に
多数のカメラメーカーが日本にもあったのだが、外国製品や
他社製品を模して作っただけのものも多く、その品質は玉石混合
という時代であった。
それらの、ある意味低性能、低品質なカメラに比べると、当時の
「ライカM3」の品質や性能は圧倒的で、まさしく「ゴジラ」級で
あったと思う。これは日本のカメラ界に激震を与え、たとえば
ニコンでは、それまで作っていたレンジ機のSシリーズ(基本的
には西独製CONTAXを模したカメラだ)を、ライカの後追いは
困難と諦め、一眼レフへの開発方針の転換を行う。そして数年後
の1959年の名機「NIKON F」の発売に繋がる歴史だ。
ただ「ライカM3」は非常に高価なカメラだ、発売当時の定価は
23万円もしていた。
当時の物価は、商品によって異なるが、だいたい現在の13~15
分の1くらいなので、「ライカM3」の価格は、およそ現在の
300万円位に相当する。
ちなみに、これは戦前の「CONTAX」の価格を現代の価値に換算
しても同じく300万円位となるのだが、以前から良く言われて
いて、現代に至るまでカメラマニア等の間で語り継がれている
「コンタックスやライカで家が1軒建った」という話がある。
現代の感覚では建築費は数千万円なので、この話はすぐには
信じられず、私もちょっと調べてみたのだが、確かにそれらの
カメラの価格は現在の300万円程度だ。では300万で家が建つか?
というと、戦前、1930年代であれば「文化住宅」という安価な
建築スタイルであれば、それは可能であった(買えた)模様だ。
しかし1950年代の高度成長期の300万では家は建たない事で
あろう。
結局あまり信憑性の無い話だが、それらのカメラのオーナーの
マニアや富裕層等は、発売後、50年~70年たっても、
マ「昔は、このカメラ1台で、家が一軒建ったのだぜ」
と言い続けていたので、周りの初級マニア等も「へ~っ」と、
その話を聞き続け、現在に至る、という感じなのだろう。
ただ、M3はともかく、戦前の話については、当時のドイツは
軍事国家であったから、カメラも「光学兵器」と見なされ、
あえて輸出を制限する為の高値であった可能性も高い。
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映画「ALWAYS 三丁目の夕日」を見ると非常に分かりやすい。
建設中の東京タワー、都電、オート三輪、などの、なんだか、
ごちゃごちゃしているが活気のある時代だ。
この頃の物価は少し上がって、現代の12~14分の1程度だ。
ちなみに店舗で食べるラーメンが45円、すでに喫茶店もあって、
コーヒー1杯が50円であったと聞く。
翌年に発売を控えた「NIKON F」は開発が進んでいた事で
あろう、そのレンズ付き販売の目標価格は、およそ7万円だ。
これは現代の価値で80~100万円程度に相当する。
依然、この時代のカメラは、現代の感覚では高価ではあるが、
この頃は高度成長期であり、「カメラが欲しい」というニーズは、
一般層にも確かに存在していた。
この頃、オリンパスでは一般大衆向けの普及カメラを企画した。
目標価格は6000円、これは現代で言う7万円台の商品だ。
やはり高価であるとは言えるが、当時の他の高性能カメラから
比べると、ずいぶんと格安だ。
それと課題はフィルムの価格だ。当時の価格の資料はあまり
残っていないが、まず35mm判のカラーフィルムは発売された
ばかりで、現像代が最初から組み込まれているが、恐らく非常に
高価だ。(推定だが、現在の7000~9000円相当にもなる)
モノクロ(白黒)フィルムは、普及が始まってはいたのだが
これも価格は不明、35mm判20枚撮りで推定150~170円位と
すれば、フィルム代だけで現在の2000円位となる。つまり
現像代を含めると、1枚撮るのに現在の価値で100~150円
ものコストがかかる事となり、現代の(高価な)インスタント
フィルムのおよそ2倍だ。
よって、この「新型オリンパスカメラ」(=ペン)は、撮影コスト
の低減も、また普及の為のコンセプトとしていて、ハーフ判、
つまり2倍の枚数を撮影できるように決定されたという事だ。
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「カメラは高価なもの、一生の資産。そして写真は、ハレの日
(重要な日、重要な出来事)の際に、数枚だけ慎重に撮るもの」
という感覚が「常識」として定着していった訳だ。
その後約60年の間に、カメラは恐ろしく進化した。
ここで一々説明する必要も無いが、今やカメラは「精密工業製品」
ではなく、デジタル化された一種の家電製品であり、消耗品で
あるとも言える。
が、実はこの間のユーザー層はあまり変わっていない・・
というか、同じ人物である場合もある。
1950年頃のベビーブームの団塊世代は、現代でもまだ70歳代だ、
彼達シニア層が、高価なカメラをありがたり、あるいは1枚の
写真を撮影するのに時間をかけて慎重に撮り、かつ、ハレの日や
珍しいもの、貴重なものばかりを撮りたがるのは、この時代の
感覚が、まだ強く残っているからであると考えられる。
カメラファンの世代が引き継がれて変わっても、このあたりの
感覚は、指導とか様々な話とかにより受け継がれていく。
現代の若いカメラマンにも多かれ少なかれ、この1950年代の
感覚が残ってしまっているのだ。
すなわち、カメラの中身が大きく変化しても、若い頃に学んだ
「価値観」は変化しようが無いのだ。
この「大きなズレ」は、私は、デジタル時代になってから顕著に
感じるようになってきている。デジタルカメラは昔のカメラとは
全く別物だ、撮り方も被写体も、撮った写真の用途もまるで違う、
けど、世間一般層はそうでは無かった。
まあ、現代でこそ、SNSや携帯・スマホカメラの普及等により、
写真を映像コミュニケーションの一環と捉えるようになったのは
若い世代の人達の間では常識だ。
しかしデジタル時代に入ってすぐの2000年代では、まだまだ
そういう考え方は一般的ではなく、世の中の普通の感覚は、
フィルムの、しかも1950~1960年代の概念のままであったのだ。
今なおその感覚は残っているかもしれない。ビギナー層が高価な
最新型高級機を買うのは、カメラが一生物の資産である、という
昔からの感覚でのニーズであろう。ただ、勿論現代は時代が違う、
超高価なフラッグシップ機ですらも、10年もたてば数万円という
二束三文の相場で取引されているのだ、デジタル機の資産価値
とは、そんなものである。だがビギナー層はそれがわからない。
私は「減価償却の法則」をデジタル時代に入ってすぐ考察し
それを守るようにしている。すなわちデジタル一眼レフ等は、
購入時価格を撮影枚数で割って、それが3円となれば「元を取った」
と見なすことにしている。つまりデジタルカメラは完全な消耗品
であるという事だ。(注:近年のカメラ価格高騰により、
そのルールは現在、守り難くなってきてしまっているが、
消耗品である事は確かであり、10年を超えて同じデジタル機
を使う事は、まずできない→仕様老朽化寿命)
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価格は6800円だったと聞く。当時の物価を12分の1と見なせば、
これは現代での約8万円だ。
PENはハーフサイズ判であるが、レンズはテッサー型3群4枚の
28mm/f3.5(フルサイズ換算約40mmの準標準)の、高性能
レンズを搭載、ハーフ判からの2倍の引き伸ばしに耐えうる
画質を実現していた。
徹底した小型化思想により、小型軽量のみならず随所にコスト
ダウンも果たしたが、それによる性能は犠牲にしていない。
このあたりは、ほとんど天才設計者である「米谷」氏の功績
であるとは言えるが、オリンパスにはこの歴史がある為、
後年、2010年代に、デジタルのPEN、すなわちμ4/3陣営に
対する批判、例えば「フルサイズの方が圧倒的に画質が良い」
があった時にも、「μ4/3はセンサーが小さくてもシステムや
レンズの性能は一切妥協していない」と反論した訳だ。
まあでも、この話はμ4/3の台頭を「脅威」と思った勢力からの
攻撃意見であると思われ、μ4/3が箸にも棒にもかからないので
あれば、無視しておけば良かった事であろう。
つまらない業界内の「舌戦」だ、一般ユーザーは、そんな事は
気にしてはならない。
さて、このPENの時代には「ハーフサイズだからダメだ」という
市場からの意見は幸いにして無かった模様である(逆に言えば、
現代は恐ろしい世の中だ、他者が成功しそうなのを見れば、
情報戦略で足をひっぱろうとする訳だ。でも実際には、そういう
事をやる人が悪いのでなく、世の中に多数流れる情報の中から
真実を見抜くことができず、安易に他人の意見に流されてしまう
「単なる情報受信者」の一般大衆にも重い責任があるのだと思う)
こうした世情から、ペンシリーズは、世の中のニーズをズバリと
突く形となって、当然ながら大ヒットした。
その後、驚異のロングセラーとして、派生機を含め、25年以上、
1986年位まで生産が続く事となった。
(注:この頃のPENシリーズの総生産台数は「1700万台」と
言われていたが、2018年になって「実は800万台でした」
と、オリンパス社発表により記録が下方修正されている。
まあ、とんでもなく多く売れた「ASAHI PENTAX SPシリーズ」
(知人のマニアが50台所有していた)でも、約350万台の
販売台数なので、それの5倍は多すぎるデータではあった)
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からおよそ10年、高度成長期のまっただなかに生まれた製品だ。
すでにヒットを続けていたPENシリーズに小改良を続けて完成度
の高いカメラとなっている。
当時、東京オリンピック(1964年)はすでに終わり、東海道新幹線が
走り、高速道路がどんどん建設され、大阪万博(1970年)の開催を
待ち望む声が大きかったであろう。しかし反面「70年安保」を
争点として学生運動が激化した時代でもある。
世の中には「ブルーライト・ヨコハマ」が流れ、数年前からの
グループサウンズの人気もまだ残っている。
霞ヶ関ビルが建ち、12月には三億円事件が起こった。
宇宙にはロケットが飛び、翌1969年には人類が初めて月に降り
立った。この「アポロ」を見ようと、各家庭ではカラーテレビを
こぞって購入したのだ、これは10万円以上もする高額な商品で
あったが、所得もそれなりに増えていた。
当時の物価は現代の1/4から1/5程度だ。
ちなみに、即席ラーメンが1袋30円、レトルトカレーが80円だ
(レトルトカレーは出たばっかりで、さすがに少し割高か?)
この PEN EES-2の発売時価格は12800円だったとの事であり、
現代の価値では、およそ5万円台の商品だ。
これまでの時代感覚と比べると、ずいぶん価格がこなれてきていて、
買いやすくなっていたと想像される。まあ物価の上昇よりも所得の
伸びが大きいから、「モノ」が沢山売れた時代である。
(現代ではモノがあふれすぎ、逆に売れ難くなってきている)
このPEN EES-2は、私は「第一次中古カメラブーム」の時代の
1990年代に購入した。当時、PENシリーズは中古市場でも人気
商品であり、特にレンズ交換型のPEN Fシリーズは、かなりの
高額で取引されていたのだが、コンパクトタイプのE型系列は
そこそこ安価で、本機は8000円で購入している。
勿論1990年代には本機にフィルムを入れ、実際に使っていた。
ハーフ判ゆえに、カメラを横位置で構えても写真が縦位置と
なるのは当初戸惑ったが、慣れればどうという事は無い。
電池が不要な「セレン露出計」方式は、やはり便利さを感じる。
ピントはMFだがゾーンフォーカス方式であり、人や山の絵に
ピントを合わせて撮れば良いので、ここも簡便だ。
まあピント精度はあまり無いのだが、優秀なレンズとあいまって
上手くピントが当たれば、そこそこ良く写った。
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というものがあり、600円前後の定額料金を払えば、現像代
そしてL判同時プリントがついてくる。DPE店によっては、
ノーリツ鋼機製のQSS(自動現像機)を導入していて、写真の
サムネイル一覧の「インデックス・プリント」もついてくるし
さらに、フィルム1本(ISO100、24枚撮り)をタダでおまけに
つけてくれる事もあった。
まあ、そういうビジネスモデル(現像代の薄利多売)であった
からなのだが、それにしてもPENの発売時とは世情がまるで違う。
PEN EES-2 に36枚撮りカラーネガを入れて、かつフィルムを
ぎりぎりで装填すると、およそ77枚程度の撮影ができる。
これをゼロ円プリントに出すと、80枚近くの写真がドサッと
手渡されるのだ、それで600円、おまけのフィルムまで貰える。
DPE店にとってば大赤字だろうが、まあそういうシステムなので
こちらは有効活用するだけだ。
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詳細は他シリーズ記事と同様なので割愛する。
OLYMPUS PEN EES-2 1968年
【基本・付加性能】★★☆
【描写力・表現力】★★★
【操作性・操作系】★★★
【質感・高級感 】★★☆
【マニアック度 】★★☆
【エンジョイ度 】★★★☆
【購入時コスパ 】★★★★ (中古購入価格:8,000円)
【完成度(当時)】★★★★
【歴史的価値 】★★
★は1点、☆は0.5点 5点満点
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【総合点(平均)】3.0点
評価点は、ぴったり平均点の3点、まあマニア向けというよりは
大衆向け一般機の代表格とも言えるカメラであろう。
歴史的価値はPENシリーズ全体であれば、もっと高くなるのだが
本機はシリーズ中期の機種であり、少し低目の評価とした。
ただ、歴史の証人としての役割は高く、カメラマニアであれば
本機である必要は無いが、PENシリーズのいずれかは、必ず
抑えておかなければならないと思う。
---
さて、PEN EES-2の話が長くなりすぎたが、
ここで今回紹介の第二の機種に進もう。
Rollei 35(テッサー40mm/F3.5 搭載)
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舶来品なので値段は高い、当時の定価は69000円と高価であり
当時の物価を現代の1/5~1/6程度と見なせば、これは
現代の価値で30万円台後半の商品となる。
このローライ35を購入するのは、当時でも「ブルジョワ層」
であったという逸話を良く聞くのだが、まあそれは当時の話だ、
私は1990年代の中古カメラブームの際にこれを購入したが、
その時代であれば、中古は数万円の相場であり、ちょっと
無理をすれば買えない訳では無かった。
本ローライ35のシミュレーター機は適切なものが無く迷ったが、
フルサイズ・ミラーレス機SONY α7と、レンズはロシア製
「インダスター50-2」 (テッサー型 50mm/F3.5)を
使用してみよう。レンズが作られた背景こそ異なるが、その経緯
はいずれも、ツァイスのルドルフ氏により1902年に発明された
名レンズ「テッサー」を源流としている。
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前述のオリンパス・ペンを始め、本ローライ35、あるいは世間の
多種多様のコンパクト機や小型カメラに、テッサー型のレンズが
採用されていて、テッサー構成では無いレンズを搭載している
カメラを探す方がむしろ珍しかった時代である。
そういう点では、コーテイング性能の良否などはあるものの
この時代のオールドコンパクトは、正しく使えば、その描写力は
似たり寄ったりである、とも言えるかも知れない。
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ブランド部品を惜しげもなく使っていることで「付加価値」が
高いからだ。
レンズは、テッサーと言えどコピー品ではなく、本家「ツァイス」
製(注:「T*(スター)」コーティングでは無い)であるし、
露出計は単体露出計ブランドとして有名な「ゴッセン」製である。
シャッターもまた「デッケルマウント」で著名なデッケル社製だ。
(注:デッケルは本来はシャッターメーカーである)
これらの「一流の部品」を、恐らくは当時世界最小と言える
超小型のボディに詰め込んでいて、なんと言うか「ギギュッと
濃縮された凄み」を感じてしまうカメラである。
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本機が高価である所以だが、ちょっと高価すぎたかも知れない。
本家ドイツでの流通価格までは調べていないが、おそらくは
もっと安価だろう。だが当時の日本においては「舶来品」は
憧れの高級品であり、高い値付けになっていたのだと思われる。
本ローライ35の長所は、説明した通りの濃縮された高級感であり、
レンズの性能もあいまって、そこそこ良く写るのも特徴だ。
絞り値やシャッター速度も、マニュアルで自在に制御できる、
この時代の超小型コンパクト機としては考えられない高性能だ。
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光学式ファインダーはあるが、ただの素通しのガラスであり
構図の確認しか出来ず、ピント距離がわからない。
ピントリングに距離指標は一応ついているのだが、しかし
撮る側としては、目の前にある被写体が3m先なのか、4mの
距離にあるのか、ちょっと自信が持て無い事であろう。
せっかくの高性能レンズだ、正しくピントを合わせたい、
けど、その方法が無い。
そこで私はこのカメラを使う際には、他に一眼レフを持ち出して
そこでピントをAFやMFで合わせ、その一眼のレンズの距離指標
を見て、ローライ35にその設定を移して撮っていた。
面倒な作業だが、まあ、のんびり撮影するフィルム時代であるし
1枚撮る事の重みは、現代のデジタル時代とはまるで違う。
現像後にピンボケ写真を量産してがっかりしたく無いのであれば
撮影時の多少の手間はやむを得ない。
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それは「建築用超音波距離計」を使用したのだ。
そう聞くと、なんだか凄そうな機械かと思うだろうが、これは
2000年位にホームセンター等で4000~5000円で売っていた
電池駆動式のポータブルな機械だ。しかし計測精度は高く、
数十m程度迄の距離を1mm単位で精密に測る事ができる。
確か、ごく初期の本ブログでも紹介した事があったと思う、
「超音波距離計」なるものを知らない周囲のカメラマニア達に
「これで美女のスリーサイズがわかる」と嘘の冗談を言ったら
バカ受けして、皆が欲しがった、という実話を書いた記事だ。
今でも所有しているが、どこにしまったのか?見つからない。
まあ、こういう変な機械を持ち出してまで撮りたいほどに
ローライ35は魅力的なカメラであったという事だ。
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いや、基本的なシャッターや絞りの調整は、内蔵の露出計
(追針式)もあるので、さほど困難では無いのだが・・
その操作のやり方が、小型化の弊害と、このカメラ独自の
操作性の設計コンセプトで、他の一般的カメラと大きく異なり、
使い難いのだ。
例えば、外付けフラッシュはカメラを上下ひっくり返さないと
使えない(!)
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一見しただけでは良くわからない。撮影後のレンズの収納方法も
わからないし、露出計の電池の場所も交換のしかたもわからない。
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カメラである。しかし、それがまたマニア心をくすぐるのだ、
つまり「これはオーナーで無いと使いこなせないカメラだ」
という優越感を得る事が出来るカメラな訳だ。
相当に「屈折した」カメラではあるが、まあ、マニアックである
とは言えるであろう。
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Rollei 35 1967年
【基本・付加性能】★★★★
【描写力・表現力】★★★★
【操作性・操作系】★☆
【質感・高級感 】★★★★
【マニアック度 】★★★★☆
【エンジョイ度 】★★
【購入時コスパ 】★★☆ (中古購入価格:20,000円)
【完成度(当時)】★★★
【歴史的価値 】★★★★☆
★は1点、☆は0.5点 5点満点
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【総合点(平均)】3.3点
まあ総合的には悪い評価では無いが、クセのある設計が弱点と
なっていて、やや使い難く、名機とは呼び難いかも知れない。
なお、現代でも中古で入手は可能だが、若干高価だ。
レンズは、テッサー型の他、よりシンプルなトリオターや
複雑なゾナー型の製品もあり、生産拠点もドイツとシンガポール
があり、仕様や生産国で中古相場に差が出る。
ゴールド仕上げ等外装が異なるバージョンもあって、一部の
レア品はコレクター向けに非常に高価な相場となっている。
実用価値はあまり無いので、無理して入手する必要性は少ないが
本機同様の初期型ならば2万円程度であると思う。
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代替電池の場合は、電圧が少し異なり、露出計に僅かな影響が
出るが、ネガフィルムであれば問題なく許容範囲となる。
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今回の「銀塩コンパクト・オールド編」記事はこれにて終了、
次回記事でも、引き続き銀塩コンパクト機を2機種紹介する。