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カメラの変遷(4) PENTAX編(前編)

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本シリーズは、各カメラメーカーが発売した銀塩・デジタル
のカメラを、およそ1970年代から現代2020年代に至る迄の
約50年間の変遷の歴史を辿る記事である。

今回はPENTAX編(前編)として、主に銀塩時代のPENTAX機を
中心に紹介する。
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現在、私が保有しているPENTAX機は1980年代以降の物に
限られる。それ以前の時代のPENTAX製カメラは、デジタル
時代に入った頃に「古すぎて実用価値なし」という判断で
処分してしまったのだ。

だが、歴史的には、勿論それ以前からPENTAXはカメラを
製造・販売している、まず、そのあたりを簡単に説明して
から、順次各時代のPENTAX機の変遷について紹介する。

挿入している写真は、紹介機種の外観、又は、その当時に
製造されたPENTAX製レンズで撮影したものである。
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1950年代 アサヒフレックス、アサヒペンタックス

まず最初に述べておくが、「PENTAX」とは、光学製品等
のブランド名であって、当初はメーカー名では無かった。
この時代、「旭光学工業(株式会社)」として一眼レフの
製造を開始した。

同社は、およそ今から100年前の1919年の創業だ。
2019年には、現在PENTAXブランドを保有する「リコー・
イメージング社」により、大々的に100周年記念イベント
が行われたのだが・・・
まず、現在「PENTAX」という企業は存在していないし、
おまけに、PENTAXというカメラ名の初出は、ペンタプリズム
を初採用した「ASAHI PENTAX」の1957年であったので、
「100周年」という呼び方には、個人的には大きな違和感
を持っていた。

PENTAX(RICOH)の例に限らないが、近年の様々な市場での
広告宣伝戦略は消費者の事を「下に見すぎて」いないだろうか?
消費者層の中にも、そうした広告宣伝を考える人達よりも、
ずっとずっと、その分野に詳しい人も居る訳だ・・

さて、余談はともかく、PENTAX(旭光学)の歴史の話だ。
1930年代には双眼鏡やカメラレンズ等を製造する光学
機器メーカーであった。(恐らくだが軍需用途も多かった
のではなかろうか?)

他のカメラメーカーはその黎明期には様々な種類のカメラを
製造し、そこから、より複雑な「一眼レフ」の製造を始める
ようになるのだが、旭光学工業(PENTAX)は、意外な事に
当初から一眼レフの開発に特化したメーカーであった。

最初期の製品は、アサヒフレックス(Asahiflex)Ⅰ型
(1952年)であり、M37型式のねじ込みマウントであった。
まだこの時代に、ペンタックス(PENTAX)の呼び名は無い。

ここから1950年代を通じ、アサヒフレックス・シリーズ機が
展開されるが、注目は世界初の「クイック・リターンミラー」
を搭載したアサヒフレックスⅡB(1954)であろう。
なお、これらの機種の発売時価格は不明だ。

この時代の国内の世情であるが、高度成長期に入った所であり、
「三種の神器」として、TV、冷蔵庫、洗濯機の普及が進む。
(白黒TV放送は1953年からスタートしていた)

1954年は、初代「ゴジラ」が公開された年だ。
ちなみにカメラ界でも、ゴジラ級のモンスター「ライカM3」
が登場している。(現代の価格で300万円程の超高価な
カメラであったが、完成度が非常に高く、ニコン等を始め
とする国内レンジファインダー機メーカーは、ライカへの
追従を断念し、一眼レフ開発へ戦略転換を行った)

この時代(のやや後)に、東京タワーの建設が進められて
いた事で、映画等での「三丁目の夕日」の世界を、思い
浮かべればドンピシャだと思う。
1958年には東京タワーが完成し、その年「チキンラーメン」
や、「缶コーヒー」(注:諸説あり)も発売されている。

さて、そんな時代背景の中、PENTAXのカメラであるが、
1957年には、これまでウエストレベルファインダーであった
アサヒフレックスを改良し、ペンタプリズムを搭載した
「アサヒペンタックス」(通称AP)が発売される。
旧来のウエストレベルでは、左右などが逆に見えるので
使い難いと思われるが、ペンタプリズムであれば正立像が
見れる事になり圧倒的に実用的だ。

「ペンタプリズム」とは五角形(5角柱)のプリズムである、
レンズを通った映像は本来は上下左右が反転しているのだが、
このプリズムを通すと内部で光が3回反射して上下と左右が
正しく見れるようになる。この仕組みは勿論現代の一眼レフ
でも使われているが、安価な機種ではガラス材質のプリズム
では無く、反射鏡を組み合わせた「ペンタミラー」の場合も
ある。
なお、5という数字は、ラテン語で「ペンタ」であり、
五角形は英語でペンタゴンだ。(例:米国防総省の建物が
五角形である為、”ペンタゴン”と呼ばれる場合がある)

PENTAXという名は勿論、この画期的な機構をカメラに
搭載した事から始まるが、長らく実際の社名は旭光学工業
のままで、PENTAXが正式社名になるのは2002年の近年の
話であるし、その後も吸収合併などで社名は変化している。

なお、上記APでは、M37マウントからM42マウントに変更
されている。

----
1960年代 アサヒペンタックス SPシリーズ
この時代は、M42マウント一眼レフの全盛期だ。
PENTAXに限らず、国内外の非常に多くのメーカーがこの規格
を採用し「ユニバーサル(汎用的な)マウント」と呼ばれる。


東独「プラクチカ」(プラクティカ、PRAKTICA)が最初に
採用したM42スクリューマウントはPSマウントと略されるが、
後年ではPENTAXのM42機の方が広く普及した為、いつのまにか
「PS」マウントは「ペンタックス・スクリューの略である」
という解釈になってくる。

この時代においても、シリーズ名は「アサヒペンタックス」
(ASAHI PENTAX)であった。
(注:単なる「PENTAX」では無いのだが、本ブログでは記載の
便宜上、「PENTAX SP」等と書く場合が各記事では殆どだ)

ここで最大の注目製品は、アサヒペンタックスSP(1964)
であろう。TTL露出計内蔵機であり、絞り込み測光(ただし
開放でピント合わせ)で、やっと実用的な一眼レフとなった。
SPシリーズは大ヒット商品となり、累計販売台数は350万台
とも言われていて伝説的だ。

なお、アサヒペンタックス SPは1960年には既に試作機が
発表されていて、SPという名称も確定していた。ちなみに
それはSpotmatic(スポット測光機)という意味であったと
聞くが、実際の発売は4年も遅れ、しかもスポット測光では
なく平均測光機である。この4年間の間にSPは仕様上で
様々な試行錯誤が行われ、結果的に、この間に「世界初の
TTL露出計内蔵」という称号も、TOPCON RE Super(1963)
に奪われてしまった。(RE Superは開放測光でもある)

知人の上級マニア氏は、何と50台!ものSPを所有していたが
私は、このシリーズでの所有数は3台程であった。
(まあ、常識的な範囲か?笑 なお、現有数はゼロ台である)
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余談だが、1964年と言えば、東京オリンピックの開催の
年である。バレーボールの「東洋の魔女」などで日本中が
沸いた年であったが、高度成長期であり、様々な新製品も
発売されている。

食品の中にも、この年に発売され、その後超ロングセラー
になった商品として「ガーナ」(チョコレート)や
「かっぱえびせん」「ワンカップ大関」などがある。

洋画では 007シリーズが2本、高い配給収益を上げている
また、マイ・フェア・レディやシャレードといった名作も
ヒットしたのであるが、邦画はちょっとパッとしない。
「興行収入」という点では、近代のハリーポッターシリーズ
等が圧倒的に大きいのではあるが、この時代やその以前から
庶民の娯楽として、映画(洋画)鑑賞は、かなり一般的で
あった事であろう。

音楽(歌謡曲)では「御三家」と呼ばれた橋幸夫、舟木一夫、
西郷輝彦、そして坂本九(故人)、美空ひばり(故人)等
が活躍していた。
なお、ビートルズの来日や、グループサウンズの流行は
もう少し後の時代の1966年頃だ。

ちなみに、後年の1970年代では、「新御三家」と呼ばれた
郷ひろみ、西城秀樹(故人)、野口五郎が人気であった。
その後の時代でも、少年御三家、平成御三家など、この手の
呼び名が多いが、これは元々、江戸時代の尾張、紀州、水戸
の各徳川家を「御三家」と呼んだ事が最初である。

それから、この1960年代末では、アポロ11号の月面着陸
(1969年)が大きな出来事だ。このTV放送を見る為、
各家庭へのカラーTVの普及率が一気に立ち上がった。
(その後10年間で、ほぼ100%に到達)

ちなみに、1964年の東京オリンピックの時は、白黒TVの
世帯普及率は約90%となっている。一応カラー放送自体は
始まってはいたが、カラーTV自体が、まだ特殊な高価な
商品であった為、1964年での普及率は、ほぼゼロ%である。

1964年10月10日の東京オリンピック開会式の日は
「抜けるような青空であった」と良く聞くのだが、
その模様をカラーTVで見た人は殆ど誰も居なかった訳だ。

なお、この事から、10月10日は「晴天特異日」であると
いう説が広まり、この日が「体育の日」(1966~2000年)
の祝日に制定された為、「良く晴れるので運動会を行う」
という風習が、昭和の時代での定番であった。
(注1:実際には、10月10日は晴天特異日では無い)
(注2:体育の日は、2020年から「スポーツの日」に
 改められ、しかも2020年は、オリンピック開会式の
 日に当該祝日が移動している→2021年には10月に戻る
 予定であったが、五輪延期により引き続きの措置との事)

それから、アポロ11号の翌年、1970年には「大阪万博」
(日本万国博覧会、EXPO '70)が開催され、約半年の
開催期間中の来場者数は、驚異の約6400万人(!)である。
最大で1日で83万人を記録しており、迷子の数は計4万人
以上、救急患者計1万人以上、会場で結婚式を挙げた
ケースも多数あり、中には会場で出産した人も居た模様で、
全ての点で圧倒的かつ伝説的な記録である。

なお、大阪万博のシンボル「太陽の党」(岡本太郎 作、
故人)は、万博閉幕後も、その「万博記念公園」に残され、
2020年には50周年記念行事も行われる予定であったの
かも知れないが、コロナ禍により、詳細は不明だ。
(2020年2月に、東京で「大阪万博50周年記念展覧会」が
実施済み、という情報もある)
なお、同公園内には「EXPO'70 パビリオン」という資料館
が40周年の2010年に開かれ、そこで万博当時の盛況ぶりや、
様々な記録を見学・参照する事が出来る。

ちなみに、故・岡本太郎氏は「太陽の党」の作者として
著名であるが、芸術家には珍しくTV娯楽番組にも多数出演、
「芸術は爆発だ!」という名セリフは人気を博し、
多数の岡本太郎デザインのグッズが人気商品となった。
(現在でも、万博記念公園の売店で色々販売されているし
ガチャガチャ(カプセル玩具の販売機)すらある位だ)

2025年に予定されている2度目の大阪万博は、ここまでの
盛り上がりを見せるのだろうか?少々そこが心配である。

さて、この時代の余談が長くなった(汗)、PENTAX機の
歴史に戻ろう。
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1970年代前半 アサヒペンタックス SP/ESシリーズ
引き続きM42マウントのアサヒペンタックスのシリーズが
人気であったが、当時は開放測光やAE(自動露出)の
機能が市場から要望されていた。

M42マウントは単なるネジ込みなので、そのままでは
そうした新機能への対応は難しい。そこでM42規格を採用する
各社は各々独自にM42を改造し、これらの機能を実現しようと
する。PENTAXも同様であり、1971年のASAHI PENTAX ES
では、M42改で、世界初の絞り優先AEを搭載した。

が、この時点でM42の「ユニバーサル」という長所は失われ、
各社における独自のM42規格酷似のレンズが沢山発売される。

現代において、これらの「M42もどき」のレンズを使用する
場合には特に注意が必要だ。使用アダプターやボディとの
組み合わせによっては、装着できない、カメラから外れない
等の深刻な問題が発生する危険性がある。これを防ぐには、
必ずミラーレス機でM42アダプターを介して使用する事だ。
万が一外れなくなったとしても、そのアダプターがレンズ
専用になるだけで、カメラボディには影響が無い。

また、この時代(1971年頃)からのPENTAX製レンズには、
SMC(Super Multi Coated)の名称が付く。
(注:後年には、レンズ名の先頭で「smc」の小文字表記)
これは「多層(マルチ)コーティング」の事だが、この
技術の採用により、レンズ表面・内面の不要な反射が
避けられ、透過率の向上から、レンズの描写力的には
コントラスト性能や逆光耐性が大幅に向上した。
他社の、この時代の単層または2層のコーティングよりも、
頭ひとつ抜けた性能で、他社もこれを見て多層コーティング
技術の重要性を知り、PENTAXに追従していく。

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1972年 OLYMPUS M-1(後にOM-1)発売。
オリンパスのこの機種は、当時世界最小・最軽量の一眼レフ
として、市場に大きなインパクトを与えた。

この機種に最も過敏に反応したのはPENTAXであった事だろう、
OM-1を超える小ささを目指して、PENTAXは新型機の開発を
スタートする。

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1975年 アサヒペンタックス K2,KM,KX
高機能化(AE等の実現)の為、ついにM42マウントを諦め、
新マウントであるバヨネット式の「Kマウント」に移行。

3機種が同時発売。内、最上位機のK2は所有していて、
初期の本ブログでも紹介していたと思う(現在未所有)
K2は、PENTAX機の中ではLXと並んで希少なステンレス製
マウントを採用していた。ただし、3機種の外観的な差異
は殆ど無く、仕様上の差異も少ない。

Kマウントのフランジバック長は、約45.5mmであり、
旧来のM42マウントとまったく同一(注:M37も同じだった)
これにより、ごく簡単な構造の「マウントアダプターK」を
使用する事で、M42レンズのKマウント機での利用は容易だ。
(勿論、絞り込み測光になるが、その点ではPENTAX SP等
でも同様であった)

これは当然ながら、350万台以上とも言われるPENTAX SP
シリーズの多数の既存ユーザー層に配慮した措置である。
「マウントが変わりましたので、これまでのレンズは
使えません」では、ユーザー層から暴動が起こってしまう。

「マウントアダプターK」は、その後30年間も、1000円と
いう安価な定価で販売され続け、これは旧来のM42ユーザー
救済の意味が強いが、まあPENTAXの「良心」であろう。
(注:HOYAやRICOHに吸収された後、大きく値上げされた)

これらの措置により、後年のキヤノンFD→EF(EOS)であった
ような、「マウント変更、かつ、互換性無し」という事で
ユーザーの不評を買う事は無かったと思う。

バヨネット式のメリットであるが、レンズ装着角度が一定
となる為(注:M42では不定)、様々な機械的機構や、
近い将来の電子接点機構などを搭載可能とする為、AE化や
将来的なAF化に対応が可能だ。
また、レンズ交換作業もスピーディに行える。

交換レンズ群であるが、旧来のM42版TAKUMARシリーズから
smc PENTAX型となり(注:ここから、smcは小文字となる)
中身のレンズ構成は旧来と同一な物も多かったと思うが、
外観変更やフィルター径の若干の大型化が図られた。
 
なお、この時期のsmc PENTAXレンズは、固有のシリーズ
名称が無く、マニアや流通業界では、便宜上、この時代の
レンズを「K、P、無印」などの呼び名で区別する。

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1976年 PENTAX MX
前述のOLYMPUS M-1(OM-1)に過敏に反応したPENTAXは、
OM-1の寸法(W,H,D)を全て0.5mmづつ小さくした対抗心
のサイズでの世界最小機を4年の開発期間をかけて発売した。

(しかし、重量はMXの方が僅かに(5g)重い)
それと、このMXから、ペンタプリズム前部に書かれていた
「ASAHI」の文字が外され、単なる「PENTAX」表記となった。

さて、MXは小型軽量で、カメラらしい格好良い機体で
後年の中古カメラブームの際にもマニア層に人気であった。
私はOM-1(MD)もMXも所有していて銀塩時代に愛用していた。

両者の小型機は、歴史的に重要な機種ではあるものの、
後年のデジタル時代に処分してしまい、現在では実機を
紹介できない。(下写真はミニチュア玩具のMX)
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で、MXの開発に時間がかかった理由だが、カメラ本体の
小型化のみならず、レンズの小型化も並行して進めたから
だと思われる。カメラだけ小さくてレンズが大きければ
小型軽量化システムとしての利点が出ないからだ。

レンズはこの時代にMシリーズ(smc PENTAX-M)となり
十分に小型化されている(ただし、オリンパス OM ZUIKO
レンズのような、徹底的なフィルター径の統一感は無い)

ちなみにKマウントの時代からは「smc」は小文字で書く
のが正解。(レンズにはそのように書かれている)
よって様々なWeb等での「SMC」記載の情報は間違いだ。
(ただしsmcの表記フォントは大きな文字サイズだ)

M型は正式には、PENAX-Mのようにハイフンを入れて書く。
これは、この後の時代のPENTAXレンズでも現代に至るまで
全て同様だ。ただし、本ブログにおいては記事記載等での
便宜上、こうしたルールも適宜簡略化して記載しているが、
他の、公式情報に近い立場のサイトですらも、こうした
「型番の間違い」は極めて多いので閲覧時に注意が必要だ。

MX(やMシリーズ)はヒット商品となった為、前年の
Kシリーズや無印レンズ群は短命に終わった。

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1970年代後半 PENTAX ME,MV-1,ME Super
MXは人気機種ではあったが、機械式マニュアル露出機で
あった為、初級層には若干の敷居の高さがあった事であろう。
後期のMシリーズは、全て絞り優先AE機能搭載だ。
市場での販売台数はそこそこあった模様であるが、個人的には
MX以外のMシリーズには興味を持てず、これらは未所有だ。

なお、この時代はCANONのカメラの変遷記事でも記載したが
CPU(マイクロプロセッサ)の急激な発展期である。
PENTAXではCPUこそ使用していないまでも、新技術である
LSI(大規模集積回路)等を使用した電子化が図られている。
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1980年 PENTAX LX
旭光学の創立60周年を記念し、L(ローマ数字の50)
とX(ローマ数字の10)という観点でネーミングされた、
PENTAX初の銀塩旗艦機。
(注:旭光学創業は1919年という説も普通であり、これだと
61年目となって少し微妙だが、まあ、細かい事は言うまい)

一見して地味なスペックであり、高価なカメラでもある為
発売期間は約20年と長かったものの、一般層や初級マニア層
には、あまり注目されていないカメラであった。

ただ、過去シリーズ記事「銀塩一眼レフ・クラッシック」
では、LXの評価点は、並み居る強豪(名機)を抑えて、
堂々の1位であった(超傑作機MINOLTA α-7は僅差の2位だ)
これはLXに、ほとんど弱点が無い為であり、多数の評価項目
による多面的な評価において、減点項目が少ないからだ。

LXの長所を3点あげておく、1つはファインダー(スクリーン)
の見えの良さだ。ここは組み合わせるファインダーユニットと
スクリーンによっても変わるが、例えばアイレベルFA-2と
全面マット(SE-20/SE-60)であればMFのピント合わせは
非常に良好、全一眼レフ中Best3に入る高レベルである。

ただ、ここは装着レンズによっても若干評価は変わるかも
知れない、例えば大口径中望遠等が適切だが、この時代の
Mシリーズレンズにはあまり適正な性能や組み合わせが無い
かも知れない。むしろ旧M42時代のSMCT120/2.8とか、後年の
AF時代になってからのFA★85/1.4やFA77/1.8が特に良好だ。

FA77/1.8との組み合わせはベストに近く、2000年代にこの
システムによるファインダーの見えを周囲のマニア層等に
見てもらうと、「凄い!人物の皆が美男・美女に見える」と
非常に好評であった。

LXのもう1つの長所は、ダイレクト測光(OLYMPUS OM-2/4
系等にも採用された)に類似の「IDM測光」システムを搭載
している事だ、この機構の直接の利点は、長秒時のAEが
効く事であり、LXの場合、Automatic(絞り優先AE)時で
何と125秒(カメラ史上最長)まで自動露出が追従する。

この為、銀塩「ピンホール撮影」には最適であり、これは
日中でも2~16秒程度の露光時間が必須になり、露出計算も
面倒であるが、このLXであれば、AEのままで難なく撮影が
可能であった。
_c0032138_15495755.jpg
そしてLXの最後の長所は「工芸品」とも言える作りの良さ
であり、この点で、感触性能、高級感、所有満足度のいずれも
高い評価が得られている。

なお、このLXの開発期間は、CPU等のデジタル技術が急速
に発展した時代ではあるが、開発開始がCPU普及前夜で
あった為、デジタル機構は採用していない。しかし耐久性は
高い模様で、発売から40年を超えても問題無く動作している。
(注:ただし、LXのオーバーホールや分解修理は、特殊な
構造である為、専門業者も嫌がり、かつ高価になると思う)

長期間発売された機体だけに、現代でもまだ中古は入手可能
であろう、しかし若干相場が高価なのが難点だ。

----
1980年代前半 PENTAX Aシリーズ、Aレンズ
マルチモードAE(プログラムAEやシャッター優先AE)への
対応の為、自動絞りとしたAシリーズ・レンズへの転換。
およびボディ側もマルチモードとしたAシリーズ
(Super A、Program A等)が発売された。

この時代のカメラボディには個人的には興味が無いが、
Aシリーズレンズは、現代のPENTAXデジタル一眼レフでも
何も問題無く使用出来るため、その点は大きな長所だ。

また、この時代、AF試作機(ME-F、1981年)も発売
されているが、専用レンズが必要等、まだ実用的な性能に
至っていない。

----
PENTAX auto 110シリーズ
ここでPENTAXの110(ワンテン)判フィルムを使用する
カメラについて、少し説明しておく。

PENTAX auto 110(1979)、PENTAX auto 110 SUPER
(1983)の2機種が存在する。


レンズ交換式一眼レフとしては、世界最小最軽量。
6種類の交換レンズが存在し、開放絞り値は全てF2.8で
統一され、レンズ側では絞り値を調整できないし、
(注:レンズシャッターを絞り機構の代用にする為)
プログラムAE専用機でもある。
唯一無二のマニアックな存在であり、マニア層にはそこそこ
人気があった、私も一時期「auto 100」を所有していた。
(譲渡により現在未所有)

なお、機種名は、autoは全て小文字、SUPERは全て大文字だ。
(注:後年のPENTAX Qシリーズに搭載されている「Auto110
モード」では、Autoの先頭のみ大文字で記載されている。
同一メーカーの製品とは言え、時代が異なれば、製品名の
表記の一貫性は失われてしまう→他社も同様な状況)

ちなみに後年2010年に、このauto 110のデザインを模した
コンパクト・デジタル機「PENTAX Optio I-10」が発売
されている。これはちょっと欲しかったが、翌年、さらに
レンズ交換式の超小型ミラーレス機 PENTAX Q(シリーズ)
が発売された為、個人的には、こちらが本命の auto 110
シリーズ後継機と見なして、Qシリーズ機に興味の対象が
移ってしまった。(下写真は、初代PENTAX Q)
_c0032138_15495797.jpg
1980年代後半 PENTAX Pシリーズ
1985年の「αショック」を受けて、PENTAXも当然ながら
AF一眼レフの実用化を目指す。しかし、試作機ME-Fの
失敗からまだ日も浅く、そう簡単にAF機は出来上がらない。
この間では、P30(1985)、P50(1986)等のPシリーズが
繋ぎとなった。私は引き続き、このあたりの機種には興味
が持てず、未所有だ。

----
1987年 PENTAX SF X発売 (SFシリーズ)
PENTAX初の実用的AF一眼レフ。SFとはSuper Focusの略で
この後、1980年代を通じてSFシリーズを展開する。

デザインの自由度を狙ったプラスチックス外装である。
「近未来的」と言えば聞こえは良いが、直線を基調とした
堅いデザインは、その当時であればバブル期の時代感覚に
マッチしていたかも知れないが、後年のプラスチッキーな
カメラが、全て曲線デザインを取り入れた事に対して
「無骨な」イメージが強い。

この為、後年の中古カメラブームの際でも極めて不人気な
シリーズであった。私もデザイン的な理由から、これらの
機種は購入していない。まあでも、この時期にAF化に失敗
したカメラメーカーもいくつもある中、PENTAXはこれらの
SFシリーズで何とかAF化に対応できた、とも言える。
まあ、後年に冷静に仕様等を見れば、最終機種のSF Xn
(1988)あたりは高機能で、実用性は高かったのかも知れない。
_c0032138_15495757.jpg
PENTAX 中判カメラ
ここでPENTAXの中判カメラについて少し紹介しておく。

まずMF機として、
PENTAX 6x7(1969),PENTAX 67(1989),PENTAX 67Ⅱ(1998)
PENTAX 645(1984)があり、いずれもロングセラー機だ。

AF機ではPENTAX 645N(1997),645NⅡ(2001)がある。
(注:デジタル中判機にPENTAX 645D(2010),645Z(2014)
等がある)

銀塩機では、35mm判一眼レフをそのまま巨大化したような
形状、そしてブローニーフィルムを直接装填する型式は、
一眼レフユーザーでも違和感なく使える中判機だ。
大面積フィルムによる圧倒的な高精細・高描写力には、
根強いファン層も多い。

だが、やはり重量はかなり重く、67判は、ボディのみで
1.6kg程度ともなり、そして交換レンズも勿論大きく重い。
しかし、中判カメラとしては、これでも軽量な方で、
なんとか手持ち撮影も可能なレベルではあると思われるが、
撮影可能な枚数も少なく、どうしても機動性は低まる。

精密な風景写真や人物集合写真等には向くと思うが、それら
の撮影分野では三脚も必須であり、よほどの必要性が無いと
なかなか購入できない類の重厚長大なカメラであろう。
私はこの重さに尻込みし、所有する気にはなれなかった・・

なお、撮影枚数が少ないという件であるが、銀塩だからとか
ブローニー判だから、という理由もあるのだが、こうした
中大判のカメラでは、1枚1枚を慎重に撮影する為「心理的な
理由で撮影枚数が減る」という理由もかなり大きい。

この為、銀塩時代には「撮影枚数はフィルム面積に反比例
する」等とも言われていた次第だ。
(注:だからと言って、ハーフ判、110判、ミノックス判、
APS機等での撮影枚数は、さほど多くは無かったとは思うが)

ちなみに、デジタル時代に入った2000年代、「デジタル機
ではフィルムの10倍(の枚数を)撮れ」というスローガン
が、良く実用派マニア層や写真学生の間で言われていたが、
こういう銀塩中判機の撮影枚数が、1日あたり数十枚で
あったならば、現代のデジタル時代では、数千枚の撮影が
標準的であるから、「フィルムの100倍撮れ!」が適正な
目標数値であろう。
_c0032138_15500991.jpg
1990年代前半 PENTAX Zシリーズ
ハイパー操作系を搭載したPENTAX Z-1/Z-10発売(1991)
バブル期に企画された「バブリー」なカメラであり、特に
初のAF旗艦機Z-1は、高機能を「てんこ盛り」とした機種だ。
(銀塩一眼レフ・クラッシックス第17回記事参照)

この「Zシリーズ」は1990年代前半を通じて多数の機種が
発売されたのだが、時代は丁度バブル崩壊後であり、
消費者のニーズやマインドが大きく変化した事から、
このZシリーズの多機能なコンセプトは、若干の違和感を
消費者層では感じるようになってしまったと思う。

ただ、その点はPENTAXに限らず他社の同時代のカメラも
同様に「バブリー」であり、銀塩一眼記事でも何度も書いた
ように、私はこの時代(1990年代前半)の機種を、Z-1を
除き、現在1台も現有していない。勿論銀塩時代には色々と
使ってはいたが、いずれも「将来に残す歴史的価値は無い」
と見なして処分してしまった訳だ。

余談であるが、NIKONが、2018年に新型(フルサイズ)
ミラーレス機「Zシリーズ」の発売を開始した際、
この時代(1990年代前半)に存在した、PENTAX Z-1
やZ-5等の機種群との型番被りを避けて、あえてNIKON

Z6/Z7という半端な数字型番からスタートした、と推測
している。勿論、ハイフンの有り無しの差異はあるが、
現代のネット時代では「検索時の固有性」も重要な型番
戦略であるからだ。(例:Z7で検索したら、NIKON Z7
が一発で出てくるが、Z1だと、カワサキのバイクとなる)
しかしながら、2019年にはNIKON Z50が発売、これは
PENTAX Z-50P(1993年)と型番被りが生じてしまっている。
(注:低価格機は、「高付加価値型戦略」のNIKONとしては、
あまり売りたく無い商品だから検索性は重要では無いのか?)
_c0032138_15500930.jpg
1990年代後半 PENTAX MZシリーズ
Zシリーズでの行き過ぎた高機能化と、時代のニーズとの
ずれを修正する為の機種群。
MZ-5(1995)から始まり、2000年代初頭まで多数の機種が
発売されている。

なお、この1995年には阪神淡路大震災が起こっていて、
バブル崩壊(1992年頃)に引き続いての、国民の経済的・
精神的なショックが大きく、ここで消費者ニーズもまた
変化している。
この時代以降、主にカメラマニア層は新規のAF一眼レフの
コンセプトやテイストに全く興味を持てず、世の中は空前の
「第一次中古カメラブーム」に突入していく。

ただ、そんな時代背景の中でも、機能をあえて制限し、
バランスの良い中堅機として上手く纏めあげたPENTAX MZ-3
(1997)は特筆するべき注目の機体であろう。
_c0032138_15501869.jpg
(MZ-3SE:1998として、銀塩一眼第21回記事で紹介)

このMZ-3は、なかなか優秀なカメラであるのだが、その長所は
単なるカタログ・スペック等の数字からでは、とても説明
しずらい、長くなるので詳細は上記当該記事を参照の事。
_c0032138_15501890.jpg
PENTAXの銀塩コンパクト機
35mm判銀塩コンパクト機として、1980年代からのZOOM70
等のZOOMシリーズ、後年の「エスピオ」シリーズがある。
また、1990年代後半からのAPSコンパクト機として、
「エフィーナ」シリーズが存在するが、これらの機種には
興味が持てず、所有していなかったので詳細は省略する。

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2003年 PENTAX *ist (イスト)
時代はすでにデジタルである。
他社からは既にチラホラとデジタル一眼レフが発売されていて
PENTAXでも 同年2003年に*istDを発売、そしてこの翌年
2004年には、デジタル一眼レフ最安値(当時)の *istDsが
発売されている。

よって、この銀塩「*ist」は、全く注目されない最後の
銀塩機になってしまったのだが、少し後になってこの機体を
詳しく検討すると、なかなか完成度が高い優秀な銀塩一眼レフ
である事がわかった。
だが、もはや手遅れだ、今更これを買っても、数年使えれば
良い方である、個人的には、ちょっと未練を残したまま
時代は急速にデジタルに転換していく。
_c0032138_15502239.jpg
さて、今回の記事はこのあたりまでで・・
丁度銀塩時代が終焉した頃である。次回記事は、PENTAX編の
後編として、主にデジタル機の変遷を紹介していこう。


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