所有している銀塩一眼レフの名機を紹介するシリーズ記事。
今回は第三世代(AFの時代、世代定義は第1回記事参照)の
OLYMPUS OM2000(1997年)を紹介する。
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装着レンズは、OLYMPUS OM SYSTEM G.ZUIKO 35mm/f2.8
(ミラーレス・マニアックス第48回記事参照)
本シリーズでは紹介している銀塩機でのフィルム撮影は
行わずに、デジタル実写シミュレーター機を使用する。
今回は、まずμ4/3 ミラーレス機PANASONIC DMC-GX7を
使用する。
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以降はシミュレーターでの撮影写真と、本機OM2000の機能
紹介写真を交えて記事を進めるが、記事後半では、
使用レンズ及びシミュレーター機を他に変えてみよう。
ちなみに、本「銀塩一眼レフ・クラッシックス」シリーズ
記事においては、シミュレーター機をデジタル機とすると
同時に、「使用レンズ」、「撮影技法」、「被写体選択」、
「写真画質」といった要素も、それぞれ、その紹介銀塩機の
時代の標準的な環境・条件に、だいたい合わせている。
その事全体が「銀塩撮影のシミュレーション」という定義
である。まあ、現代の視点から言えば、古いレンズで、
ありふれた被写体を、何の工夫も無い撮り方で撮って、
画質もあまり良く無い、という事にもなるのだが・・(汗)
しかし、それでも、1970年代、1980年代、1990年代と
時代が進むにつれ、その撮影環境も変化してきているので、
本シリーズ記事では、そうした時代の変化もかなり意識して
シミュレーション撮影を行っている。
(例;1970年代はモノクロで被写体は非日常なものだけ、
1980年代では、カラー化されたがまだ画質が低い、等)
で、本機OM2000の時代、1990年代後半では、DPE店での
「ゼロ円プリント」の普及から、撮影コストが下がった事で、
日常的な被写体の範囲にまで一般カメラマンの関心は向き、
かつ写真画質もフィルムや自動現像機の進歩により、そこそこ
良くなってきている状況だ。
もう少しの間、1990年代カメラの紹介の期間では、
このスタンスを続けてシミュレーションをして行こう。
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ではここから、OLYMPUS OM2000の話となる。
まず最初に、本シリーズ記事での「第三世代」は「AFの時代」
であるが、本機はMFカメラだ。
第18回記事のYASHICA FX-3 Super2000の回でも説明したが、
AF時代でも、稀にMF一眼レフが新発売された事がある。
その中の1台が本機OLYMPUS OM2000だ。
まず最初に型番の話だが、OM2000の「2000」は、
最高シャッター速度1/2000秒という意味だ。
PENTAX LX 2000のように「2000年」と言う意味では無いので
念のため。
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いきなり余談だが、この時代1990年代末期には、世紀が
変わる事を意味する「ミレニアム」(千年紀)と言う言葉が
流行していた。
同時に世間ではコンピューターの内部時計による年号が、
もし2ケタしか認識されない場合、2000年に入ると同時に
年代が「00」となってしまい時間の前後関係がおかしくなる
(新しい時刻の方が古いと見なされる。例えば、銀行の
利息計算が出来なくなる等)様々なシステム障害の可能性
があった為、これを「2000年問題」と呼んで、大騒ぎを
していた。
2000年1月1日には「厳戒態勢」をしいて、不測の事態
(例えば交通信号や電車、ATM等が全部止まってしまう等)
に備えていたのであったが・・結局何も起こらなかった。
まあ元々、ソフトウェアエンジニア(プログラマー)であれば
1990年代に作るソフトは、近い将来そういう可能性になる
事を十分予見して作っただろうし、仮に、その対策を施して
いなかった場合でも、事が起こる前にエンジニアが一所懸命
直した事であろう。
で、これらの世情から、「2000」という数字がやたらと
フイーチャーされていた時代だ。
他にも「2000円札」も出たし、様々な商品にも「2000」の
数字が付いていたり、ミレニアム記念商品も多数発売
されていた。
(まあ、本年2019年の「改元」ブームと同様の感覚だ)
そういえば、その前年1999年にも「ノストラダムスの大予言」
により世界が滅亡する、という噂が流れて、一部の人達は
大騒ぎをしていたのだが・・ こちらは「2000年問題」とは
異なり、根拠の無い話であるが、一般庶民にとっては、事の
本質はわからない。ともかく「世紀が変われば何かが起こる」
・・とまあ、そんな風に考えてしまう時代であったのだろう。
![c0032138_16314762.jpg]()
さて、型番の話だった(汗)
OM2000にはハイフンが無い。オリンパスのOMでハイフンが
入るのはOMヒトケタの高級機だけであって、他には入らない。
例えば、OM-2には入るが、OM30,OM707,OM2000はハイフン
無しだ。
他には、キヤノンでも銀塩時代より最上級機EOS-1系のみ
ハイフンが入り、他は入らない(EOS-3のみ例外)という慣習
があって、これは現代のデジタルEOSにも踏襲されている。
あと、ミノルタ→SONYと引き継いだ「α」であるが、
ミノルタ時代はハイフン有り、SONY時代はハイフン無し、と
明確に区別されている。
ミノルタとソニーの機種の場合は結構ややこしく、例えば、
α-7とα7、α-9とα9は、元々は全く違うカメラなのに、
ハイフンの有り無しでモロに機種名が被ってしまうので、
かなり注意しなければならない。
一般サイトは勿論、公式情報に近いようなサイトですら、
平気でこの間違いをしている様子を多々見る事は残念だ。
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さて、それから本機OM2000の出自である。
第18回記事のYASHICA FX-3 Super 2000の回でも話題が
出たが、本機が「コシナ製OEM機である」と言う話だ。
でも結局、それはどうでも良い事だと思う。
繰り返しの話になるが、1990年代の「コシナ」は当時の
初級中級ユーザー層には全く知られていなく、ブランド・
バリューが全く無かった為、それらの機種を購入した
ユーザーが「騙された!」という気持ちになったのかも
知れないが、その後の2000年前後から高級ブランド銘を
次々に取得した現代の「コシナ」は「高級レンズメーカー」
として極めて著名だ。
むしろ、現代の感覚では「へ~、中身がコシナ製だったのか
ラッキー!」という風に、昔とは逆の印象を持つ事であろう。
時代は常に移り変わっていく、何十年も前の「常識」は
現代の感覚や世情にはマッチしていない事も多々あるのだ。
古い情報や概念を、いつまでも持ち続ける事は意味が無い。
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それから、本シリーズ記事ではオリンパスのOM一眼レフの
登場回数は少なく、第13回記事の「OM-4Ti」以来だ。
まあ、それは私がデジタル時代に入ってから、オリンパス
の1970年代までの古い一眼レフ等を「もう使わない」
という理由で譲渡してしまっていたからだ。
結局残ったのは、まあまあ新しい方の2台のみ、という状態
であった。ちなみに本機OM2000は最後の銀塩OM機である。
(勿論OMは後年にデジタルで復活する→OM-D E-M5 2012年)
て、そもそもオリンパスは、1990年代には、ほとんど
一眼レフを新規発売していない。
OM-4TI(1986)までのオリンパスのカメラの歴史は、
第13回記事で既に紹介している。本記事では、それ以降の
歴史について紹介しよう。
<1986年>
OM-4Ti(本シリーズ第13回記事)
旧機種OM-4(1983、現在未所有)の白チタン外装バージョン。
時代は、前年1985年のα-7000による「αショック」を
受けたところである。全メーカーとも開発の全てのリソース
(人、物、金、時間等)を、全てAF機開発に費やしていた
真っ最中である、とても新規のMF一眼レフを作っている暇は
無い。旧機種の焼き直し版でも、まあしかたが無いと言える。
それにOM-4Tiは決して古い平凡なカメラではなく、当該記事
での最終的な評価点も悪くは無い。将来に伝えるべき名機だ。
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OM707
オリンパス初のAF一眼レフ。しかし、仕様上のミスにより
市場に受け入れられなかった。このたった1つの失敗が
致命傷となり、オリンパスの銀塩一眼レフ開発は事実上
ここで終わってしまった。
以降オリンパスは2003年のフォーサーズ判デジタル一眼レフ
「E-1」まで20年近くも、新設計の(銀塩)一眼レフを
一台も発売していない。
この話は残念な事実である。もしOM707が成功していた
ならば、その後のカメラ界の歴史やパワーバランスは、
大きく変わっていたかも知れない。
で、オリンパスには天才設計技師「米谷(まいたに)」氏
(故人)が居る、そう、超有名機のPENやOMを開発した、
まさにその人だ。
「米谷氏は、いったいこのOM707の時、何をしていたのだ?」
と、後年、私も疑問に持って、ちょっとだけ調べてみたが・・
米谷氏は1984年に取締役に昇進している、これは、銀塩
コンパクトの名機「XA2」(1980年、カメラ初のグッド
デザイン賞受賞、米谷氏自身がデザイン)および、その
関連シリーズの発売後の人事であり、想像であるが昇進と
同時に、開発の現場の第一線から離れたのであろうか・・
だからOM707には米谷氏の開発コンセプトが直接は加わって
いなかったに違い無い。もし米谷氏がちゃんと開発を見て
いればAFを重視するあまり、MFが殆ど使えないようにして
しまったり、旧来のOM機との互換性を著しく廃するような
仕様には決してしなかった事であろう・・
まあ、もし上記の話が想像通りだったとすると、これも
この「時代」故の問題だろうか・・
それはまあ、確かに米谷氏はカメラ史上最も有名な開発者で
あり、これまた多大な功績をあげた方だ。既に故人ではあるが
伝説的な「レジェンド」であり、カメラマニアであれば
知らない人は居ないし、「オリンパス党」であれば
「神格化」される程の方だ。
けど、それだけ功績があった方を、現場を離れる形で昇進
させてしまうのは、どうなんだろうか・・?
まあ、1980年代は、まだ「年功序列」の時代のまっただ中だ、
もしこれが後年の時代であれば、企業には「専門職」という
カテゴリーの職種も存在し、部長級や取締役級に昇進したと
しても、給料が上がるだけで、従来通りの専門的な業務に
従事できる。
つまり、ややこしい経営とかマネージメントとか交渉と
いった仕事(おそらくは技術者なら苦手であろう)に
係わらずとも済む訳だ・・
まあ仕方が無い。それもこれも、皆、時代の未成熟による
ものだ。スポーツの世界でも、現役時代に非常に活躍した
選手をそのまま監督に就任させ、結果、チーム成績が
ボロボロになった例はいくらでもあったでは無いか、
そもそも仕事を遂行する為に要求されるスキルが全く違う
のに、功績だけを重視しても意味が無い、それは本人の
問題ではなく、むしろ「人事」の問題だろう。
まあ、今時では、スポーツチームの関係者のみならず、
単にTV等でスポーツを観戦しているファン層ですら
「監督には監督向きの人材を手配するべきだ」という事は、
誰でも理解している。
が、1980年代であればスポーツの世界でも功績を優先した
人事ミスはいくらでもあった、それは野球等の例を見れば
明白であろう。
![c0032138_16320292.jpg]()
さて、余談が長くなった(汗)
引き続きオリンパスの一眼レフの歴史の話を続ける。
<1987年>
この年、オリンパスの一眼レフ発売は無い。
<1988年>
OM101
恐らくはOM707の「敗戦投手」としてのリリーフカメラだ。
AF機能をあえて外したが、OM707用の専用AFレンズを使用
できる。市場で成功したカメラとは全く聞かないが、
工業・医療分野用途としては長らく使われたそうだ。
<1989年>
OM-4Ti ブラック
1986年のOM-4T(白)の黒チタン仕上げバージョン
もう、この年あたりからオリンパスの新規開発の一眼レフ
は無い。しかし、OM707のたった1つのミスの代償としては、
厳しすぎるようにも思える。OM707に限らず、過去にも
失敗作のカメラは、他社にも色々あっただろうに・・
この時代はバブル期であったから、もし、この時期にOM707が
発売されて失敗していたとしても許されていたかも知れない。
ほんの僅かなタイミングの差だ、重ね重ね残念な歴史である。
<1990年~1993年>
引き続き、新規の一眼レフ発売は無し。
まあそれでも、OMシリーズは継続販売されていたし、
AF時代とは言え、この時期のバブル崩壊においてユーザー層
の消費マインドも大きく変化、むしろこの時代の各社AF機の
「バブリーな仕様」から、ユーザーとの感覚との差異が
生じていたので、後期OMのような真面目に作ったMFカメラは、
逆に重宝されていたのかも知れない。
(その傾向は、1990年代後半にはさらに顕著となり、
空前の「第一次中古カメラブーム」を引き起こす)
で、この時代、オリンパスの銀塩AFコンパクト機としては、
「μ(ミュー)」1991年が発売され、多数の派生機を含めて
ヒットシリーズとなる、これは米谷氏設計のXAシリーズ
(MFコンパクト)のAF版の正当後継機とも言えるだろう。
特に1997年の「μ-Ⅱ」(ハイコスパレンズ第20回等)は、
私が定義する「史上最強の普及版銀塩AFコンパクト機」
である。(注:本機OM2000と同年発売。
下写真は、限定版の「μ-Ⅱ Limited」)
![c0032138_16323655.jpg]()
でもまあ、このμシリーズのヒットも、米谷氏の「XA」の
功績の上に成り立っているものだと思う。
そして、現代でのμ4/3機のデジタル版のPENやOMも、
いわば米谷氏の遺産だ。
(米谷氏は、デジタルのPENが発売された同年同月に死去、
非常に惜しい人を亡くしました、ご冥福をお祈りいたします)
結局、オリンパスのほぼ全てのカメラ事業を1人で支えている。
つくづく、偉大な技術者であったと思う。
ここで少し余談だが、「XA」がカメラマニアの間で有名に
なったのは、写真家の「田中長徳」氏の著書「銘機礼賛」
(1992年)に出ていた「オリンパスXAの女」という短編
エッセイからだ。
この話は私も読んだ事があり、本業が写真家とは思えない
程の、軽妙かつ、情景や心理描写が印象的な名作であった。
「チョートク」氏は作家としても十分な資質があったのだろう。
これで一気に、マニアの間で「XA」人気が高まり、私も当然
欲しかったのだが、中古市場では極端な玉数不足でレア品に・・
後年2000年頃にやっと「XA」を19,000円程で入手できた
のであるが、しばらくの間機嫌良く使っていたら時代は急速に
デジタルに変わっていってしまっていた・・(XAは現在未所有)
<1994年>
OM-3Ti
10年前の1984年に発売されていたOM-3のチタン外装(灰色)版
機械式カメラであり、マニアックな仕様だ。
すでに当時のOM-3の開発者が居なく、設計は苦労したらしい。
製造工程も当然昔の物を踏襲するが、その技能を持つ人も
居ない。
結果、定価は20万円と、かなり(オリンパスOMで最も)高額
なカメラとなった。
発売後に中古カメラブームが始まったが、高価なカメラ故に
中古玉数が少なく新品しか無い。
私は当時OMヒトケタ機を全部集めたいと思って、これを無理
して新品購入したのだが、マニュアル露出機においては、
オリンパス(米谷氏)伝統の「左手操作系」は非常に使い難い。
いわゆるマニュアルシフト(絞り値とシャッター速度を、
逆方向に同じ段数変える)を行う際に、左手のみの設定操作
において両者を同時には出来ないからだ。
この問題は、実用的にOM機を使おうとする際には結構重大だ。
OM-3Tiは、すぐ譲渡してしまい、残念ながら手元には残って
いない。
結局、販売台数が4000台弱であった、という事で、レア感
からか、後年には中古市場でプレミアム相場で取引されていた。
(それ以前のOM-3もプレミアム相場だった)
が、私は勿体無かったとは思わない。「カメラは写真を撮る
道具であって、投機の対象では無い」と考えていたので
何も気にはしなかった。
(しかし、後年にOM-3Tiのイメージを踏襲して作られた
ミラーレス機OM-D E-M5 MarkⅡ Limitedを入手している)
<1995年~1996年>
新規の一眼レフ発売は無し。
1995年には未曾有の大災害、阪神淡路大震災もあったし、
また、デジタル時代を目前に控え、銀塩OM一眼の開発の
余裕は全く無い事であろう。
<1997年>
OM2000
やっと、本機の時代に到達した。
最後の銀塩OM機である、結局1990年代を通じて、OMは
たった2機種しか新規発売されていない。
当時のプレスリリースを見ると
「東欧・東南アジア及び中南米諸国を主に狙った低価格機」
とある。発展途上国では、まだまだMF機、しかも頑丈で
電池が無くても使用できる機械式一眼レフのニーズは高かった
のであろう。
ただ、もうオリンパスに一眼レフ製造のリソース(資源)は
無い。それはOM-3Tiの開発秘話で「10年前にOM-3を作ったが
当時の技術者が誰も居ない」という暴露があった事で有名だ。
そこで定評のあるコシナ社のOEM生産に託したのだと思う。
![c0032138_16325064.jpg]()
さて、ここで本機OM2000の仕様について述べておく、
OLYMPUS OM2000(1997年)
マニュアルフォーカス、35mm判フィルム使用カメラ
最高シャッター速度:1/2000秒(機械式)金属縦走り
フラッシュ:非内蔵、シンクロ速度1/125秒 X接点
ホットシュー:ペンタプリズム部に固定
ファインダー:固定式、スクリーン交換不可
スプリット+マイクロプリズム型
倍率0.84倍 視野率93%
ファインダー内照明:無し(LED方式なので不要)
使用可能レンズ:オリンパスOMマウント系
絞り込みプビュー:有り
露出制御:マニュアル露出のみ
測光方式:TTL中央重点平均測光、スポット測光
露出補正:無し(マニュアル露出なので不要)
ファインダー内表示:+○ーの三点合致式露出表示
ストロボ充電完了表示
巻き上げ角:不明、分割巻上げ不可
レリーズロック:巻上げレバー収納でレリーズロック
多重露光:専用レバーにより可
セルフタイマー:有り(機械式)
電源:SR44/LR44型 2個
電池チェック:シャッター半押しで露出計動作
フィルム感度調整:手動ISO25~3200、DXコード非対応
本体重量:430g(ボディのみ)
発売時定価:50,000円(標準ズーム35-70mm/f3.5-4.8付き)
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このあたりで、シミュレーター機とレンズを交換しよう。
![c0032138_16320180.jpg]()
カメラ PANASONIC LUMIX DMC-GX7→SONY α7
レンズ OLYMPUS OM G.ZUIKO 35mm/f2.8→OM 35mm/f2.0
とする。
(OM35/2は、ミラーレス・マニアックス第73回記事で紹介)
![c0032138_16320285.jpg]()
本機OM2000の長所だが、
まず、コシナCT-1系をベースにした信頼性が高くローコスト
で完成度の高いボディに、オリンパスならではの特徴的な
付加機能を追加した事だ。
具体的には、「スポット測光」がそれであろう。
![c0032138_16325078.jpg]()
オリンパスOMの「スポット測光」の歴史としては、
1983~1984年に、OM-4,OM-2SP,OM-3に、次々と
スポット測光機能が搭載された事による。
スポット測光機能はポジ(リバーサル)フィルムを使う際に、
構図内のハイライト(最も明るい)、シャドウ(最も暗い)
部分の露出差を明確に意識する事で、写真のできあがりが
イメージしやすい為、露出が厳密な写真を撮る必要のある
ユーザー層(職業写真家やコンテスト等を狙うアマチュア層)
には重要な機能だ。
しかし、フィルムのラティチュード等への正確な知識と経験
そして、構図内の何処にスポット測光を適用するかの
知識と技術、さらには煩雑な操作性、など、かなり敷居が高く
初級中級層には、手におえない高度な機能であっただろう。
この時代の初級中級マニアでは「スポット測光が入っている」
という理由で、OM機の「付加価値」と見なして購入した人も
多いとは思うが、カタログスペックと、それを使いこなせるか
どうかは、勿論まったく別次元の話だ。
これはこの時代のOMの話に限らず、現代のデジタル機でも
同様であろう、現代のデジタル機では超絶的な性能や機能が
多々搭載されている。が、それらが入っているから、と
購入した初級中級層では、全く使いこなせていない事は、
言うまでも無い事実だ。
なお、スポット測光では「露出差分」の考え方が重要になる
この点については後述しよう。
![c0032138_16325035.jpg]()
他、多重露光や絞り込みプレビュー等の付加機能もあり、
最高1/2000秒シャッターとあいまって、1970年代のフラッグ
シップ機並みのスペックとなっている。
![c0032138_16325016.jpg]()
シャッターボタンは、通常の金属となっていて、
YASHICA FX-3 Super 2000での「プラスチックの棒」より
だいぶ使い易い(ただ、依然、ミラーショックが大きい)
他には大きな特徴は無いが、まあ、ベーシックな機能に
特化した優秀なカメラである。
![c0032138_16321875.jpg]()
本機OM2000の弱点であるが、
最大の問題点は、「+○ー」三点式の露出インジケーター
であろう。
他の記事でも再三述べたが、マニュアル露出機で、しかも
スポット測光機能がある場合は、露出計による基準の
露出値とハイライトやシャドウでの露出差が、露出メーター
上の絶対値でわからないとならないのだ。
OM-3/OM-4系には、このメーター機能が入っているが、
表示が少々わかりにくいのと、多点平均スポット機能とか
になっているので、操作系は、かなり煩雑であった。
これでは上級者でも使いこなすのは困難であった事だろう。
本機では単純スポットなので、あまりややこしさは無いが、
メーターのスケールが無いのでお手上げだ。
この仕様だと、中央重点測光代わりにスポットの狭い範囲で
露出を測るといった、中級レベルでの使い方しか出来ない。
![c0032138_16330354.jpg]()
他、ファインダーに関しては、内部情報表示があまりにも
少なすぎるが、これは割り切った仕様なのでやむを得ない。
ファインダー倍率は、0.84倍と、FX-3系の0.91倍よりも
だいぶ低い。(注:仕様記載上の基準が異なるのか?)
![c0032138_16330319.jpg]()
シャッターダイヤルは他社機と同様に、カメラ上部(軍艦部)
にあり、他のオリンパスOM機のマウント部のそれとは異なる。
この為、一般的なOMユーザーの場合、むしろ違和感を感じて
しまうかも知れない。
しかし、前述のように、オリンパスの「左手思想」では、
OMのマニュアル露出機においては、絞り環とシャッター環
の同時逆操作が出来ないので、実用性が低い。
「1枚1枚のんびりと写真を撮る」1970年代であれば、それでも
良かったどころか、むしろ設計コンセプトに初めて「操作系」
の概念を取り入れた事などで、高く評価できたのではあるが、
もう既に1990年代では時代が変わっている。
例えば、本機OM2000の前年1996年には NIKONの旗艦F5が
発売されている(本シリーズ第19回記事)これは秒8コマで
素早く撮影する事を目的とした高速連写機であり、デジタル
(電子)ダイヤルによる操作系を採用している。
まあ「F5とOMでは用途がまるで違う」とは勿論言えるが、
それにしても、写真を撮る為の操作が素早く出来ない、
というのはやはり問題ではあろう。
で、旧来のOMよりは通常シャッターダイヤルのOM2000の
方がマニュアル露出機の操作性(操作系)としては適している。
が、これでも絞りとシャッターの同時逆操作は依然難しく、
他の記事でも書いたが、シャッター速度を先に決めてから、
絞り環で露出を調整するシャッター優先風の操作になる事
だろう。(注:通常は絞り環の設定段数の方が多い為、
シャッター速度を先に決めた方が追従自由度が高まる)
いずれにしても、時代に合っていない事は確かではあるが、
これも他の記事で書いたとおり、第一次中古カメラブームの
際には、実用派のユーザー(投機目的では無いという意味)
においては、マニュアル(MF/M露出)機にフィルムを入れて
撮影する事は珍しくは無かった。だから、さほど「使い難い」
という印象は持たず、むしろ「マニュアルで撮りたい気分」
の際に、「化物カメラとなってしまったF5」を家に置いて
軽快なOM2000でのんびりと撮影できる事は悪くは無かった。
それから、OM2000は「標準ズームレンズキット」のみでの
販売であり、ボディ単体での発売は無かった、この点、
あまり魅力的とはいえない標準ズームはマニア的には邪魔に
はなるが、まあ、おりしも中古ブームであるからボディ単品も
良く流通はしていた(注:単品相場は若干高価であった)
本機OM2000であるが、コシナ機の例によって、シンプルすぎて
性能的には不足だとは言えるが、完成度は高いカメラだと思う。
![c0032138_16321856.jpg]()
さて、最後に本機OM2000の総合評価をしてみよう。
評価項目は10項目だ(項目の意味は本シリーズ第1回記事参照)
-----
OLYMPUS OM2000(1997年)
【基本・付加性能】★★★
【操作性・操作系】★★☆
【ファインダー 】★★
【感触性能全般 】★★
【質感・高級感 】★★
【マニアック度 】★★★★☆
【エンジョイ度 】★★
【購入時コスパ 】★★☆ (中古購入価格:18,000円)
【完成度(当時)】★★★★
【歴史的価値 】★★★☆
★は1点、☆は0.5点 5点満点
----
【総合点(平均)】2.8点
マニアック度と完成度以外の評価点が少しづつ低く、
平均点をやや下回る得点だ。
まあでも、割り切ったコンセプトのカメラゆえに、性能の
低さは特に問題では無い。・・というか、その当時の他の
AF機と比べたら性能的に時代遅れに感じるだけであり、
写真を撮る為の基本機能とすれば、十分か、むしろ付加機能
の搭載により優れている方だと思う位だ(それ故に性能の
評価点は3点と、標準的としている)
現代において、あえて入手する価値は無いとは思うが、
「OM党」のマニアであるならば、最後の銀塩OM機としての
歴史的価値は高く、抑えておく必要があるカメラであろう。
次回記事では、引き続き第三世代の銀塩一眼レフを紹介する。
今回は第三世代(AFの時代、世代定義は第1回記事参照)の
OLYMPUS OM2000(1997年)を紹介する。

(ミラーレス・マニアックス第48回記事参照)
本シリーズでは紹介している銀塩機でのフィルム撮影は
行わずに、デジタル実写シミュレーター機を使用する。
今回は、まずμ4/3 ミラーレス機PANASONIC DMC-GX7を
使用する。

紹介写真を交えて記事を進めるが、記事後半では、
使用レンズ及びシミュレーター機を他に変えてみよう。
ちなみに、本「銀塩一眼レフ・クラッシックス」シリーズ
記事においては、シミュレーター機をデジタル機とすると
同時に、「使用レンズ」、「撮影技法」、「被写体選択」、
「写真画質」といった要素も、それぞれ、その紹介銀塩機の
時代の標準的な環境・条件に、だいたい合わせている。
その事全体が「銀塩撮影のシミュレーション」という定義
である。まあ、現代の視点から言えば、古いレンズで、
ありふれた被写体を、何の工夫も無い撮り方で撮って、
画質もあまり良く無い、という事にもなるのだが・・(汗)
しかし、それでも、1970年代、1980年代、1990年代と
時代が進むにつれ、その撮影環境も変化してきているので、
本シリーズ記事では、そうした時代の変化もかなり意識して
シミュレーション撮影を行っている。
(例;1970年代はモノクロで被写体は非日常なものだけ、
1980年代では、カラー化されたがまだ画質が低い、等)
で、本機OM2000の時代、1990年代後半では、DPE店での
「ゼロ円プリント」の普及から、撮影コストが下がった事で、
日常的な被写体の範囲にまで一般カメラマンの関心は向き、
かつ写真画質もフィルムや自動現像機の進歩により、そこそこ
良くなってきている状況だ。
もう少しの間、1990年代カメラの紹介の期間では、
このスタンスを続けてシミュレーションをして行こう。

まず最初に、本シリーズ記事での「第三世代」は「AFの時代」
であるが、本機はMFカメラだ。
第18回記事のYASHICA FX-3 Super2000の回でも説明したが、
AF時代でも、稀にMF一眼レフが新発売された事がある。
その中の1台が本機OLYMPUS OM2000だ。
まず最初に型番の話だが、OM2000の「2000」は、
最高シャッター速度1/2000秒という意味だ。
PENTAX LX 2000のように「2000年」と言う意味では無いので
念のため。

変わる事を意味する「ミレニアム」(千年紀)と言う言葉が
流行していた。
同時に世間ではコンピューターの内部時計による年号が、
もし2ケタしか認識されない場合、2000年に入ると同時に
年代が「00」となってしまい時間の前後関係がおかしくなる
(新しい時刻の方が古いと見なされる。例えば、銀行の
利息計算が出来なくなる等)様々なシステム障害の可能性
があった為、これを「2000年問題」と呼んで、大騒ぎを
していた。
2000年1月1日には「厳戒態勢」をしいて、不測の事態
(例えば交通信号や電車、ATM等が全部止まってしまう等)
に備えていたのであったが・・結局何も起こらなかった。
まあ元々、ソフトウェアエンジニア(プログラマー)であれば
1990年代に作るソフトは、近い将来そういう可能性になる
事を十分予見して作っただろうし、仮に、その対策を施して
いなかった場合でも、事が起こる前にエンジニアが一所懸命
直した事であろう。
で、これらの世情から、「2000」という数字がやたらと
フイーチャーされていた時代だ。
他にも「2000円札」も出たし、様々な商品にも「2000」の
数字が付いていたり、ミレニアム記念商品も多数発売
されていた。
(まあ、本年2019年の「改元」ブームと同様の感覚だ)
そういえば、その前年1999年にも「ノストラダムスの大予言」
により世界が滅亡する、という噂が流れて、一部の人達は
大騒ぎをしていたのだが・・ こちらは「2000年問題」とは
異なり、根拠の無い話であるが、一般庶民にとっては、事の
本質はわからない。ともかく「世紀が変われば何かが起こる」
・・とまあ、そんな風に考えてしまう時代であったのだろう。

OM2000にはハイフンが無い。オリンパスのOMでハイフンが
入るのはOMヒトケタの高級機だけであって、他には入らない。
例えば、OM-2には入るが、OM30,OM707,OM2000はハイフン
無しだ。
他には、キヤノンでも銀塩時代より最上級機EOS-1系のみ
ハイフンが入り、他は入らない(EOS-3のみ例外)という慣習
があって、これは現代のデジタルEOSにも踏襲されている。
あと、ミノルタ→SONYと引き継いだ「α」であるが、
ミノルタ時代はハイフン有り、SONY時代はハイフン無し、と
明確に区別されている。
ミノルタとソニーの機種の場合は結構ややこしく、例えば、
α-7とα7、α-9とα9は、元々は全く違うカメラなのに、
ハイフンの有り無しでモロに機種名が被ってしまうので、
かなり注意しなければならない。
一般サイトは勿論、公式情報に近いようなサイトですら、
平気でこの間違いをしている様子を多々見る事は残念だ。

第18回記事のYASHICA FX-3 Super 2000の回でも話題が
出たが、本機が「コシナ製OEM機である」と言う話だ。
でも結局、それはどうでも良い事だと思う。
繰り返しの話になるが、1990年代の「コシナ」は当時の
初級中級ユーザー層には全く知られていなく、ブランド・
バリューが全く無かった為、それらの機種を購入した
ユーザーが「騙された!」という気持ちになったのかも
知れないが、その後の2000年前後から高級ブランド銘を
次々に取得した現代の「コシナ」は「高級レンズメーカー」
として極めて著名だ。
むしろ、現代の感覚では「へ~、中身がコシナ製だったのか
ラッキー!」という風に、昔とは逆の印象を持つ事であろう。
時代は常に移り変わっていく、何十年も前の「常識」は
現代の感覚や世情にはマッチしていない事も多々あるのだ。
古い情報や概念を、いつまでも持ち続ける事は意味が無い。

登場回数は少なく、第13回記事の「OM-4Ti」以来だ。
まあ、それは私がデジタル時代に入ってから、オリンパス
の1970年代までの古い一眼レフ等を「もう使わない」
という理由で譲渡してしまっていたからだ。
結局残ったのは、まあまあ新しい方の2台のみ、という状態
であった。ちなみに本機OM2000は最後の銀塩OM機である。
(勿論OMは後年にデジタルで復活する→OM-D E-M5 2012年)
て、そもそもオリンパスは、1990年代には、ほとんど
一眼レフを新規発売していない。
OM-4TI(1986)までのオリンパスのカメラの歴史は、
第13回記事で既に紹介している。本記事では、それ以降の
歴史について紹介しよう。
<1986年>
OM-4Ti(本シリーズ第13回記事)
旧機種OM-4(1983、現在未所有)の白チタン外装バージョン。
時代は、前年1985年のα-7000による「αショック」を
受けたところである。全メーカーとも開発の全てのリソース
(人、物、金、時間等)を、全てAF機開発に費やしていた
真っ最中である、とても新規のMF一眼レフを作っている暇は
無い。旧機種の焼き直し版でも、まあしかたが無いと言える。
それにOM-4Tiは決して古い平凡なカメラではなく、当該記事
での最終的な評価点も悪くは無い。将来に伝えるべき名機だ。

オリンパス初のAF一眼レフ。しかし、仕様上のミスにより
市場に受け入れられなかった。このたった1つの失敗が
致命傷となり、オリンパスの銀塩一眼レフ開発は事実上
ここで終わってしまった。
以降オリンパスは2003年のフォーサーズ判デジタル一眼レフ
「E-1」まで20年近くも、新設計の(銀塩)一眼レフを
一台も発売していない。
この話は残念な事実である。もしOM707が成功していた
ならば、その後のカメラ界の歴史やパワーバランスは、
大きく変わっていたかも知れない。
で、オリンパスには天才設計技師「米谷(まいたに)」氏
(故人)が居る、そう、超有名機のPENやOMを開発した、
まさにその人だ。
「米谷氏は、いったいこのOM707の時、何をしていたのだ?」
と、後年、私も疑問に持って、ちょっとだけ調べてみたが・・
米谷氏は1984年に取締役に昇進している、これは、銀塩
コンパクトの名機「XA2」(1980年、カメラ初のグッド
デザイン賞受賞、米谷氏自身がデザイン)および、その
関連シリーズの発売後の人事であり、想像であるが昇進と
同時に、開発の現場の第一線から離れたのであろうか・・
だからOM707には米谷氏の開発コンセプトが直接は加わって
いなかったに違い無い。もし米谷氏がちゃんと開発を見て
いればAFを重視するあまり、MFが殆ど使えないようにして
しまったり、旧来のOM機との互換性を著しく廃するような
仕様には決してしなかった事であろう・・
まあ、もし上記の話が想像通りだったとすると、これも
この「時代」故の問題だろうか・・
それはまあ、確かに米谷氏はカメラ史上最も有名な開発者で
あり、これまた多大な功績をあげた方だ。既に故人ではあるが
伝説的な「レジェンド」であり、カメラマニアであれば
知らない人は居ないし、「オリンパス党」であれば
「神格化」される程の方だ。
けど、それだけ功績があった方を、現場を離れる形で昇進
させてしまうのは、どうなんだろうか・・?
まあ、1980年代は、まだ「年功序列」の時代のまっただ中だ、
もしこれが後年の時代であれば、企業には「専門職」という
カテゴリーの職種も存在し、部長級や取締役級に昇進したと
しても、給料が上がるだけで、従来通りの専門的な業務に
従事できる。
つまり、ややこしい経営とかマネージメントとか交渉と
いった仕事(おそらくは技術者なら苦手であろう)に
係わらずとも済む訳だ・・
まあ仕方が無い。それもこれも、皆、時代の未成熟による
ものだ。スポーツの世界でも、現役時代に非常に活躍した
選手をそのまま監督に就任させ、結果、チーム成績が
ボロボロになった例はいくらでもあったでは無いか、
そもそも仕事を遂行する為に要求されるスキルが全く違う
のに、功績だけを重視しても意味が無い、それは本人の
問題ではなく、むしろ「人事」の問題だろう。
まあ、今時では、スポーツチームの関係者のみならず、
単にTV等でスポーツを観戦しているファン層ですら
「監督には監督向きの人材を手配するべきだ」という事は、
誰でも理解している。
が、1980年代であればスポーツの世界でも功績を優先した
人事ミスはいくらでもあった、それは野球等の例を見れば
明白であろう。

引き続きオリンパスの一眼レフの歴史の話を続ける。
<1987年>
この年、オリンパスの一眼レフ発売は無い。
<1988年>
OM101
恐らくはOM707の「敗戦投手」としてのリリーフカメラだ。
AF機能をあえて外したが、OM707用の専用AFレンズを使用
できる。市場で成功したカメラとは全く聞かないが、
工業・医療分野用途としては長らく使われたそうだ。
<1989年>
OM-4Ti ブラック
1986年のOM-4T(白)の黒チタン仕上げバージョン
もう、この年あたりからオリンパスの新規開発の一眼レフ
は無い。しかし、OM707のたった1つのミスの代償としては、
厳しすぎるようにも思える。OM707に限らず、過去にも
失敗作のカメラは、他社にも色々あっただろうに・・
この時代はバブル期であったから、もし、この時期にOM707が
発売されて失敗していたとしても許されていたかも知れない。
ほんの僅かなタイミングの差だ、重ね重ね残念な歴史である。
<1990年~1993年>
引き続き、新規の一眼レフ発売は無し。
まあそれでも、OMシリーズは継続販売されていたし、
AF時代とは言え、この時期のバブル崩壊においてユーザー層
の消費マインドも大きく変化、むしろこの時代の各社AF機の
「バブリーな仕様」から、ユーザーとの感覚との差異が
生じていたので、後期OMのような真面目に作ったMFカメラは、
逆に重宝されていたのかも知れない。
(その傾向は、1990年代後半にはさらに顕著となり、
空前の「第一次中古カメラブーム」を引き起こす)
で、この時代、オリンパスの銀塩AFコンパクト機としては、
「μ(ミュー)」1991年が発売され、多数の派生機を含めて
ヒットシリーズとなる、これは米谷氏設計のXAシリーズ
(MFコンパクト)のAF版の正当後継機とも言えるだろう。
特に1997年の「μ-Ⅱ」(ハイコスパレンズ第20回等)は、
私が定義する「史上最強の普及版銀塩AFコンパクト機」
である。(注:本機OM2000と同年発売。
下写真は、限定版の「μ-Ⅱ Limited」)

功績の上に成り立っているものだと思う。
そして、現代でのμ4/3機のデジタル版のPENやOMも、
いわば米谷氏の遺産だ。
(米谷氏は、デジタルのPENが発売された同年同月に死去、
非常に惜しい人を亡くしました、ご冥福をお祈りいたします)
結局、オリンパスのほぼ全てのカメラ事業を1人で支えている。
つくづく、偉大な技術者であったと思う。
ここで少し余談だが、「XA」がカメラマニアの間で有名に
なったのは、写真家の「田中長徳」氏の著書「銘機礼賛」
(1992年)に出ていた「オリンパスXAの女」という短編
エッセイからだ。
この話は私も読んだ事があり、本業が写真家とは思えない
程の、軽妙かつ、情景や心理描写が印象的な名作であった。
「チョートク」氏は作家としても十分な資質があったのだろう。
これで一気に、マニアの間で「XA」人気が高まり、私も当然
欲しかったのだが、中古市場では極端な玉数不足でレア品に・・
後年2000年頃にやっと「XA」を19,000円程で入手できた
のであるが、しばらくの間機嫌良く使っていたら時代は急速に
デジタルに変わっていってしまっていた・・(XAは現在未所有)
<1994年>
OM-3Ti
10年前の1984年に発売されていたOM-3のチタン外装(灰色)版
機械式カメラであり、マニアックな仕様だ。
すでに当時のOM-3の開発者が居なく、設計は苦労したらしい。
製造工程も当然昔の物を踏襲するが、その技能を持つ人も
居ない。
結果、定価は20万円と、かなり(オリンパスOMで最も)高額
なカメラとなった。
発売後に中古カメラブームが始まったが、高価なカメラ故に
中古玉数が少なく新品しか無い。
私は当時OMヒトケタ機を全部集めたいと思って、これを無理
して新品購入したのだが、マニュアル露出機においては、
オリンパス(米谷氏)伝統の「左手操作系」は非常に使い難い。
いわゆるマニュアルシフト(絞り値とシャッター速度を、
逆方向に同じ段数変える)を行う際に、左手のみの設定操作
において両者を同時には出来ないからだ。
この問題は、実用的にOM機を使おうとする際には結構重大だ。
OM-3Tiは、すぐ譲渡してしまい、残念ながら手元には残って
いない。
結局、販売台数が4000台弱であった、という事で、レア感
からか、後年には中古市場でプレミアム相場で取引されていた。
(それ以前のOM-3もプレミアム相場だった)
が、私は勿体無かったとは思わない。「カメラは写真を撮る
道具であって、投機の対象では無い」と考えていたので
何も気にはしなかった。
(しかし、後年にOM-3Tiのイメージを踏襲して作られた
ミラーレス機OM-D E-M5 MarkⅡ Limitedを入手している)
<1995年~1996年>
新規の一眼レフ発売は無し。
1995年には未曾有の大災害、阪神淡路大震災もあったし、
また、デジタル時代を目前に控え、銀塩OM一眼の開発の
余裕は全く無い事であろう。
<1997年>
OM2000
やっと、本機の時代に到達した。
最後の銀塩OM機である、結局1990年代を通じて、OMは
たった2機種しか新規発売されていない。
当時のプレスリリースを見ると
「東欧・東南アジア及び中南米諸国を主に狙った低価格機」
とある。発展途上国では、まだまだMF機、しかも頑丈で
電池が無くても使用できる機械式一眼レフのニーズは高かった
のであろう。
ただ、もうオリンパスに一眼レフ製造のリソース(資源)は
無い。それはOM-3Tiの開発秘話で「10年前にOM-3を作ったが
当時の技術者が誰も居ない」という暴露があった事で有名だ。
そこで定評のあるコシナ社のOEM生産に託したのだと思う。

OLYMPUS OM2000(1997年)
マニュアルフォーカス、35mm判フィルム使用カメラ
最高シャッター速度:1/2000秒(機械式)金属縦走り
フラッシュ:非内蔵、シンクロ速度1/125秒 X接点
ホットシュー:ペンタプリズム部に固定
ファインダー:固定式、スクリーン交換不可
スプリット+マイクロプリズム型
倍率0.84倍 視野率93%
ファインダー内照明:無し(LED方式なので不要)
使用可能レンズ:オリンパスOMマウント系
絞り込みプビュー:有り
露出制御:マニュアル露出のみ
測光方式:TTL中央重点平均測光、スポット測光
露出補正:無し(マニュアル露出なので不要)
ファインダー内表示:+○ーの三点合致式露出表示
ストロボ充電完了表示
巻き上げ角:不明、分割巻上げ不可
レリーズロック:巻上げレバー収納でレリーズロック
多重露光:専用レバーにより可
セルフタイマー:有り(機械式)
電源:SR44/LR44型 2個
電池チェック:シャッター半押しで露出計動作
フィルム感度調整:手動ISO25~3200、DXコード非対応
本体重量:430g(ボディのみ)
発売時定価:50,000円(標準ズーム35-70mm/f3.5-4.8付き)
----
このあたりで、シミュレーター機とレンズを交換しよう。

レンズ OLYMPUS OM G.ZUIKO 35mm/f2.8→OM 35mm/f2.0
とする。
(OM35/2は、ミラーレス・マニアックス第73回記事で紹介)

まず、コシナCT-1系をベースにした信頼性が高くローコスト
で完成度の高いボディに、オリンパスならではの特徴的な
付加機能を追加した事だ。
具体的には、「スポット測光」がそれであろう。

1983~1984年に、OM-4,OM-2SP,OM-3に、次々と
スポット測光機能が搭載された事による。
スポット測光機能はポジ(リバーサル)フィルムを使う際に、
構図内のハイライト(最も明るい)、シャドウ(最も暗い)
部分の露出差を明確に意識する事で、写真のできあがりが
イメージしやすい為、露出が厳密な写真を撮る必要のある
ユーザー層(職業写真家やコンテスト等を狙うアマチュア層)
には重要な機能だ。
しかし、フィルムのラティチュード等への正確な知識と経験
そして、構図内の何処にスポット測光を適用するかの
知識と技術、さらには煩雑な操作性、など、かなり敷居が高く
初級中級層には、手におえない高度な機能であっただろう。
この時代の初級中級マニアでは「スポット測光が入っている」
という理由で、OM機の「付加価値」と見なして購入した人も
多いとは思うが、カタログスペックと、それを使いこなせるか
どうかは、勿論まったく別次元の話だ。
これはこの時代のOMの話に限らず、現代のデジタル機でも
同様であろう、現代のデジタル機では超絶的な性能や機能が
多々搭載されている。が、それらが入っているから、と
購入した初級中級層では、全く使いこなせていない事は、
言うまでも無い事実だ。
なお、スポット測光では「露出差分」の考え方が重要になる
この点については後述しよう。

最高1/2000秒シャッターとあいまって、1970年代のフラッグ
シップ機並みのスペックとなっている。

YASHICA FX-3 Super 2000での「プラスチックの棒」より
だいぶ使い易い(ただ、依然、ミラーショックが大きい)
他には大きな特徴は無いが、まあ、ベーシックな機能に
特化した優秀なカメラである。

最大の問題点は、「+○ー」三点式の露出インジケーター
であろう。
他の記事でも再三述べたが、マニュアル露出機で、しかも
スポット測光機能がある場合は、露出計による基準の
露出値とハイライトやシャドウでの露出差が、露出メーター
上の絶対値でわからないとならないのだ。
OM-3/OM-4系には、このメーター機能が入っているが、
表示が少々わかりにくいのと、多点平均スポット機能とか
になっているので、操作系は、かなり煩雑であった。
これでは上級者でも使いこなすのは困難であった事だろう。
本機では単純スポットなので、あまりややこしさは無いが、
メーターのスケールが無いのでお手上げだ。
この仕様だと、中央重点測光代わりにスポットの狭い範囲で
露出を測るといった、中級レベルでの使い方しか出来ない。

少なすぎるが、これは割り切った仕様なのでやむを得ない。
ファインダー倍率は、0.84倍と、FX-3系の0.91倍よりも
だいぶ低い。(注:仕様記載上の基準が異なるのか?)

にあり、他のオリンパスOM機のマウント部のそれとは異なる。
この為、一般的なOMユーザーの場合、むしろ違和感を感じて
しまうかも知れない。
しかし、前述のように、オリンパスの「左手思想」では、
OMのマニュアル露出機においては、絞り環とシャッター環
の同時逆操作が出来ないので、実用性が低い。
「1枚1枚のんびりと写真を撮る」1970年代であれば、それでも
良かったどころか、むしろ設計コンセプトに初めて「操作系」
の概念を取り入れた事などで、高く評価できたのではあるが、
もう既に1990年代では時代が変わっている。
例えば、本機OM2000の前年1996年には NIKONの旗艦F5が
発売されている(本シリーズ第19回記事)これは秒8コマで
素早く撮影する事を目的とした高速連写機であり、デジタル
(電子)ダイヤルによる操作系を採用している。
まあ「F5とOMでは用途がまるで違う」とは勿論言えるが、
それにしても、写真を撮る為の操作が素早く出来ない、
というのはやはり問題ではあろう。
で、旧来のOMよりは通常シャッターダイヤルのOM2000の
方がマニュアル露出機の操作性(操作系)としては適している。
が、これでも絞りとシャッターの同時逆操作は依然難しく、
他の記事でも書いたが、シャッター速度を先に決めてから、
絞り環で露出を調整するシャッター優先風の操作になる事
だろう。(注:通常は絞り環の設定段数の方が多い為、
シャッター速度を先に決めた方が追従自由度が高まる)
いずれにしても、時代に合っていない事は確かではあるが、
これも他の記事で書いたとおり、第一次中古カメラブームの
際には、実用派のユーザー(投機目的では無いという意味)
においては、マニュアル(MF/M露出)機にフィルムを入れて
撮影する事は珍しくは無かった。だから、さほど「使い難い」
という印象は持たず、むしろ「マニュアルで撮りたい気分」
の際に、「化物カメラとなってしまったF5」を家に置いて
軽快なOM2000でのんびりと撮影できる事は悪くは無かった。
それから、OM2000は「標準ズームレンズキット」のみでの
販売であり、ボディ単体での発売は無かった、この点、
あまり魅力的とはいえない標準ズームはマニア的には邪魔に
はなるが、まあ、おりしも中古ブームであるからボディ単品も
良く流通はしていた(注:単品相場は若干高価であった)
本機OM2000であるが、コシナ機の例によって、シンプルすぎて
性能的には不足だとは言えるが、完成度は高いカメラだと思う。

評価項目は10項目だ(項目の意味は本シリーズ第1回記事参照)
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OLYMPUS OM2000(1997年)
【基本・付加性能】★★★
【操作性・操作系】★★☆
【ファインダー 】★★
【感触性能全般 】★★
【質感・高級感 】★★
【マニアック度 】★★★★☆
【エンジョイ度 】★★
【購入時コスパ 】★★☆ (中古購入価格:18,000円)
【完成度(当時)】★★★★
【歴史的価値 】★★★☆
★は1点、☆は0.5点 5点満点
----
【総合点(平均)】2.8点
マニアック度と完成度以外の評価点が少しづつ低く、
平均点をやや下回る得点だ。
まあでも、割り切ったコンセプトのカメラゆえに、性能の
低さは特に問題では無い。・・というか、その当時の他の
AF機と比べたら性能的に時代遅れに感じるだけであり、
写真を撮る為の基本機能とすれば、十分か、むしろ付加機能
の搭載により優れている方だと思う位だ(それ故に性能の
評価点は3点と、標準的としている)
現代において、あえて入手する価値は無いとは思うが、
「OM党」のマニアであるならば、最後の銀塩OM機としての
歴史的価値は高く、抑えておく必要があるカメラであろう。
次回記事では、引き続き第三世代の銀塩一眼レフを紹介する。