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カメラの変遷(13)OLYMPUS編(前編)

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各カメラメーカーが発売した銀塩・デジタルのカメラを、
およそ1970年代から、現代2020年代に至る迄の、
約50年間の変遷の歴史を世情等と絡めて辿る記事である。

勿論、紹介機は、全て所有しているものに限る。
過去所有していて「現在未所有」とういう機体は
稀に話としては出てくるが、未購入・完全未所有の
機体については、説明や紹介のしようが無い訳だ。

また、当然ながら、他から借りて来た機材とか、
一応買ったが、短時間だけ軽く評価したら、すぐに
処分してしまう事等も、本ブログでは一切あり得ない。
そういう状態では、機材の本質など、わかりようも
無いからだ。
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今回はOLYMPUS編(前編)として、主に銀塩時代のOLYMPUS
のカメラ(一眼レフ、コンパクト機)を中心に紹介する。

ご存知のように、OLYMPUSは、2020年にカメラ事業を
分社化し、2021年からは「OMデジタルソリューションズ
株式会社」という投資事業で、カメラの製造販売を
行っている。なお、当面の間、カメラのブランド銘は
「OLYMPUS」のままの模様だ。

で、現在、私が保有しているOLYMPUS機は主に1980年代
以降の物に限られる。それ以前の時代の銀塩OLYMPUS機
も色々と所有してはいたが、デジタル時代に入った頃に

「古くて実用価値無し」という理由で、殆どを処分して
しまっている。
私は「コレクター」ではなく、全ての所有機材を実際に
使用する「実用派マニア」であるから、こういう考え方も
当然であろう。

それから、世間一般層でのOLYMPUSのカメラといったら
どういうイメージであろうか?
「マニア向け、通好み」「小型軽量なカメラ」「大衆機」
「マクロが優れている」「お洒落なイメージ」「医療向け」
まあどれも正しいと思う、それらの世間的なイメージが
何故定着したのか?も、本記事中で説明していこうと思う。
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ではまず、OLYMPUS製カメラの歴史から簡単に説明しよう。

*OLYMPUSカメラの黎明期 1930年代~

オリンパスは今からおよそ100年前の、1919年より
顕微鏡、体温計などの理化・医療向けの機器を製造販売
していた、国内ではかなり老舗の光学機器メーカーである。
(注:思えば、オリンパスが「100周年」を大々的に
記念しなかった事は、もう、その時点で既に、写真事業
からの撤退を決めていたからではなかろうか・・?)

1930年代頃からは、写真用カメラ事業にも参入する。
この時期は本シリーズ各記事においても、CANON、MINOLTA、
RICOHなど、多くのカメラメーカーが市場参入している事が
わかるであろう。また、海外メーカーにおいてもCONTAXや
ライカ等の市場参入も、丁度この時代である。

日本では昭和(1926年~)の初期の、この時代に、何故
国内外の多くのメーカーがカメラ事業を始めたのか?
その理由は良くわからない、歴史を辿ってみても軍事的な
面での出来事や社会的な不穏がとても多かった時代ではある。
それとも、当時のカメラのほぼ全てが、軍事的な用途や
社会的な報道/記録用であったのだろうか? なにぜ当時の
ライカやコンタックス機は現代の貨幣価値で300万円にも
およぶ超高額商品だから、一般層が買えるものでは無い。

やはり当時のカメラは、そうした「特別な用途」に使う
ものであったのだろうか・・ だとすればカメラは一種の
「光学兵器」とも言えるだろうから、国家等がその研究
開発を支援していたのであろうか?(特に、当時のナチス
ドイツは、ヒトラー政権である。軍事が主体であろう) 

まあ、今となっては、そのあたりの真相は闇の中であるし、
もしそういう事だとすれば、切実かつ暗い歴史であるから、
あまり呑気に「戦前のライカやコンタックスは高性能で
あった」などの話を、カメラマニア的視点でするのも、
ちょっと的外れなのかも知れない。

*第二次世界大戦と戦後の時代 1940年代~

さて、大戦中(1939年~1945年)では、国内外の各カメラ
メーカーからの一般層へのカメラ販売は無い。恐らくは
全てのカメラ・光学機器メーカーが「軍需工場」に指定
され、軍事用の光学機器等を作っていただろうからだ。
そして、ドイツの敗戦により、戦後、ツァイスは東西に
分かれてしまい、その後も色々とあったのだが・・

まあその件は本記事とは無関係だ、本シリーズ第10回記事
のCONTAX編を参照していただきたいのだが、CONTAXや
ツァイスのブランドを単純に信奉する現代の初級マニア層に
おいては、あまり気持ちの良い歴史では無い事は述べておく。
(特に、2020年頃から、国産CONTAXのカメラやレンズの
中古相場が酷く高騰している。このブランドの歴史が良く
わかっていない人達による「投機的相場」だと思われる)

まあ現代においては、カメラのファン層は「どのカメラや
レンズが良い」などの呑気な話が出来る平和な世情では
あるが、カメラの変遷の歴史を辿っていく上では、どんな
有名ブランドであっても、戦争や世情の変化などの影響を
とても強く受けている、その歴史は決して平和的な物でも
無いし、順風満帆という訳でも無いのだ。

大戦後、1950年代には、オリンパスは国産初(世界初)
の医療用内視鏡(胃カメラ)の開発に成功する。
その後1960年代には、内視鏡にファイバー・スコープを
採用している。
この大発明から、オリンパスは医療分野に深く係わるように
なり、後年での「オリンパスのカメラは医療向け」という
イメージは、ここから生じている事となる。

また、この頃から、中判や35mm判カメラの製造販売が
復活している。

*ハーフ判カメラの大ヒット 1960年代~

戦後の復興がだいたい終わった時代には、カメラは一般層
への普及が始まる。
勿論戦時中のような暗い軍事用途ではなく、「冠婚葬祭」
とか「ハレの日」や「旅行」等、を一般庶民が個人的な
理由で映像を記録する為の”民生用途”機である。

で、当初、写真用フィルムは贅沢品で高額であった為、
オリンパスでは、35mm判フィルムを2分割して使用する
いわゆるハーフ判カメラである「PEN(ペン)」シリーズ
を発売する。これは世情に合って大ヒット商品となり、
1959~1986年迄の長期に渡り800万台(注:旧来は
1700万台と言われていたが、近年に下方修正された。
オリンパスの分社化における、過去情報の見直し
により発見された事実だったのかも知れない)
もの膨大な生産(販売)台数があったと言われている。

世間の誰もが「ペンを持っている」という状況でもあった
と思われ、オリンパスのカメラが「大衆機」であるという
イメージはここから出てきている。
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上写真は、OLYMPUS-PEN EES-2 (1968年)
(注:OLYMPUSとPENの間にはハイフン(-)が入る)

PENシリーズは実に沢山の機種があるのだが、まあカメラ
マニアであれば、どれかは押さえておく必要があるだろう。
それだけ歴史的価値の高いカメラである。
また、壊れ難い構造の機種も多く、発売後50年やそこらを
経過しても、今なお完動する機体も多いと思う。

なお、言うまでも無い事だが、2009年からのオリンパス
ミラーレス機において、PENの名前がブランド(シリーズ)
名として復活し、現代に至っている。
(注:現代のデジタルPENシリーズでは「OLYMPUS PEN」と、
ハイフンが入らない。ただし「PEN-F」は例外で、近代の
デジタル機では型番側にハイフンありで、昔の銀塩機の
場合では「OLYMPUS-PEN F」となっている)

*一眼レフ OM-SYSTEMの時代 1970年代~

オリンパスは1970年代に一眼レフ(M-1/OM-1)の開発販売
を開始する。主要な設計者は、天才と称され、国内カメラ
史上で最も有名なカメラ技術者「米谷美久」氏である。
彼はPENシリーズやXAシリーズの設計も手がけているが、
あまりに著名であり、世の中やネット上には、彼の功績や
開発の逸話などは、いくらでも情報がある為、その詳細は
割愛しよう。

OM-SYSTEM(旧:Mシステム)は、開発コードの一種で
あり、正式な製品名では無いと思われ、OM-SYSTEM、
OM SYSTEM、OMシステム等、いくつかの表記があると
思うが、どれが正しいか?は不明である。

実際の銀塩OM用レンズ上の表記は「OM-SYSTEM」なので、
それが正解だとは思うが、本ブログでは、適宜、それらを
混在して使っている場合もある。

さて、OM-SYSTEMの特徴はいくつかある。
1:小型軽量な一眼レフ(当時世界最小、最軽量)と交換レンズ
2:小型であっても性能や品質を妥協していない事
3:開発面、利用者面での徹底した標準化・汎用化思想
4:医療用途との親和性

まあ、この中で4)に関しては、前述の胃カメラ開発等により
オリンパスが医療分野に強かった(実績や販路がある)から
であろう、一般層においても「マクロに強いオリンパス」
というイメージが定着したのも、この医療分野との連携が
あると思う。
(関連記事:特殊レンズ第2回OLYMPUS MACRO編)

で、1)~3)は「設計思想」である。これは現代でも勿論
通用するだろうコンセプトであるが、面白い事に、この点
においては、現代のOLYMPUS機や他社機よりも、この時代の
OM-SYSTEMの方が、そうした拘りの思想が、より強い。

まあ、ごく単純な例を挙げれば、OM用ZUIKOレンズ群の
開放F値やフィルター径を、ビシっと統一するとか、
OMヒトケタ機の付属品等が、どれも共通で使えるとか、
徹底したカメラの小型軽量化等である。
で、近代のデジタル時代でのPEN系機体では、小型化の
名目で、内蔵フラッシュを外して、外付けにしたりするが、
この時代であれば、そんな事をしたら
「小型化しても性能を妥協するな!」と一喝されたであろう。
(注:銀塩PENにフラッシュは内蔵されてはいないが、
あくまでカメラの設計開発に係わる「意識」の話である)

ちなみに、M-1(1972年。ただしエルンスト・ライツ社
(ライカ)からの、言いがかりにも近いクレームにより、
1973年には、やむなくOM-1に改名されている。
・・まあ現代の視点からは、ライカMシリーズの、たった
1文字の「M」に「商標としての識別力」は存在しない為、
徹底抗戦が望ましかったと思うが、当時はそうした訴訟を
嫌う世情でもあった事であろう)・・は、発売当時に
おいて世界最小、最軽量の一眼レフであった。

この事は、PENTAXがOM-1を強く意識して全寸法を0.5mm
ずつ小さく設計し開発されたPENTAX MX(1976年)により、
4年後に世界最小の座は奪われるが、最軽量については、
引き続きOM-1が第一位であった。

(参考:ちょうどこの時代、西独カール・ツァイス社が
カメラ事業から撤退し、「CONTAX」のブランドをPENTAX
(旭光学工業:当時)に移譲する話を持ちかけたそうだが
PENTAXは、その話を受けなかった、との事。
まあ、この「OM-1対抗」の逸話は、当時のPENTAXの企業と
しての志向性・思想を如実に表すものであり、独自性や
対抗心、一眼レフの草分けメーカーとしてのプライド等が
強く見てとれる。まあ、こういう方向性なのであれば、
「有名ブランド」の知名度に頼るような市場戦略は
PENTAXとしては、受け入れがたいものであるように思える)

・・で、オリンパスのカメラが「小型軽量である」という
世間的なイメージは、このセンセーショナルなM-1(OM-1)
によるものである。
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さて、1970年代は、AE(自動露出)化の時代でもあった。
よって、OMシステムでも、偶数番機(OM-2系、OM-4系)
にAE機能を与える事となる。
また、OM-2からは「TTLダイレクト測光」という、通好み
の特殊機構が内蔵されている。これの採用機は、一眼レフ
全体を通して、数える程しか存在していない。
(参照:銀塩一眼レフ第7回「PENTAX LX」編)
(注:特にAF時代に入ってからは、TTL光をAF(位相差)
センサーに割り振る必要があり、TTLダイレクト測光
機構との両立が難しかったからだと思われる)

勿論、AE等が入ったからと言って、カメラが大きくなったり
レンズの互換性が失われる訳では無い。繰り返しになるが
OMシステムの設計思想における拘りは半端では無いのだ。

後の時代、この徹底した強い拘りの設計思想に魅かれる
「OM党」は、中上級マニアの中で多数現れている。
私もその1人であり、「OMヒトケタ機を全部揃えたい」と
思って、後年にそれを画策した。それは一応2000年頃に
実現したのだが、すでに世の中は、AF時代からデジタルに
切り替わろうとしている世情であり、1970年代当時に、
いかに先進的であったとしても、もうすでに発売から
四半世紀を超えた古い設計思想のカメラでしか無い現実を
目の当たりにして、「OM熱」は一気に醒めてしまった。

(注:それでも、こうした「強い拘りの設計思想」は、
マニア的視点からは魅力的だ。現代のカメラは、市場縮退
(=売れない)の理由もあり、ここまでの「強い拘り」を
全く持っていない。まあ、だから、現代のマニア層は近代の
カメラに、ほとんど興味を持てない状況なのだ・・)

で、私の手元にいくつもあったOM機は雲散霧消し、現在に
おいても残しているのは比較的新しい2機種のみである。
OM-4Ti(1986年、銀塩一眼第13回記事、上写真)と、
OM2000(1997年、銀塩一眼第22回記事、下写真)
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参考の為、以下、OMヒトケタシリーズ全機種名と、
その発売年をあげておこう。(注:MD,N等の派生型を除く)
なお、機種名にハイフンが入るのはOMヒトケタシリーズのみ
である。(例:OM10、OM707、OM2000等はハイフン無し)

1972年 M-1(後にOM-1)
1975年 OM-2
1983年 OM-4
1984年 OM-2SP
1984年 OM-3
1986年 OM-4Ti(注:AF時代)
1994年 OM-3Ti(注:AF時代)

まあ、このようにAF時代に入ってからもなお、OM-SYSTEM
はMF機を販売していた訳であるし、後述のOM-SYSTEM用
交換レンズ「ZUIKO」の値上げもあって、1990年代のOMは、
「マニア向けの贅沢なシステム」という感じになっていた。
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記事冒頭に述べた、「OLYMPUS機はマニア向け」という
イメージは、この時代、1990年代に根付いた訳である。

*OM-SYSTEM用 ZUIKO 交換レンズ 1970年代~1990年代

 OM-SYSTEM用の交換レンズ「ZUIKO」は、特殊なAF試作機
(OM707,OM101)用を除き、全てがMFレンズである。
(注:「ZUIKO」と、全て大文字で書かれる事が殆どだ)
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その「ZUIKO」の特徴は以下の通り
1:多数のバリエーション豊かな製品ラインナップ
(「宇宙からバクテリアまで」(何でも撮れる)という
 開発コンセプトをかかげていた)
2:いずれも小型軽量であるが、描写力は妥協していない
3:フィルター径の徹底的な統一(φ49mm、φ55mm)
4:開放F2版レンズが、21mm~250mmまで幅広く存在する
5:多くの焦点距離で大口径(F2級)版と小口径(F3.5級)版
 が並存する(注:必ずしも大口径版が高描写力では無い)
6:医療用等、特殊マクロレンズが何本も存在する
7:操作性に「左手思想」が採用されている
 (「左手思想」は、匠の写真用語辞典第1回記事参照)
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これらのレンズ群について詳しく述べているときりが無い
ので大幅に割愛する。たいていは過去記事で何度も紹介
しているとは思うが、あまりまとまった形での記事は無い。
参考記事としては「特殊レンズ・超マニアックス第33回
OLYMPUS OM-SYSTEM F2編」を参照されたし。
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なお、マクロレンズのラインナップが多く、かつ優秀なのは
前述の理由で、医療分野との関係が強く、そこで使える
マクロレンズを多数開発した事も理由であろう。
ニーズがあれば、気合の入った設計となり、性能も向上
していく好循環だ。すなわち得意分野となった訳だ。
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注意すべきは、OMシステムは、1980年代にAF化に失敗し
1990年代を通じてMFのZUIKOレンズを継続販売していた。
この為、何度かの値上げがあって、最終期においては
かなり割高な様相もあった。これではなかなか売れない。

・・で、あまり販売数が多くなければ、レアなレンズは
とても希少となってしまう。なので後年には投機層等が
これに着目し、プレミアム相場で希少レンズを転売する
事も多々ある。だが、勿論、希少で高価なレンズである
事と、性能や描写力が高い事は、全くイコールでは無い。

単に「珍しい」という理由だけで、高価すぎるそれらを
欲しがる事は、ほとんど意味が無いので念のため。
(つまり、それは「マニア道に外れる」という意味である)
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*OLYMPUS コンパクト機 1980年代~1990年代

こちらも色々と持ってはいたが、現有している機体は
とても少ない。まあ、過去所有機を中心に、代表的な
マニアック機種について紹介しておこう。

1979年 XA
 MFながら、35mm/F2.8高性能単焦点レンズと、絞り優先
 機能を備えた、マニアックなバリア型小型コンパクト機。
 二重像合致式距離計、すなわちレンジファインダー機で
 あるとも言える。(以降のXAシリーズには、この距離計
 機構は搭載されていない)

 この機種が有名になったのは、写真家の田中長徳氏の
 著書「銘機礼讃」(1992年)に「オリンパスXAの女」
 という叙情的な名作エッセイが載っていて、それを
 読んだマニア層が、こぞってXAを欲しがったからだ。

 ・・ただ、少々その波及力が強すぎたかも知れない。
 元々セミレアな機種であり、なかなか入手困難に
 なってしまい、私が1990年代末頃に、やっと1台それを
 見つけて買った時には、19000円もの高値となっていた。
 まあでも、性能や機能が優れていたので、しばらくは
 機嫌よく使っていたが、最短撮影距離が85cmと、とても
 長くて(距離計連動機構での制限か)不満だったのと、
 描写力も後述のμ-Ⅱと比べると見劣りする点があり、
 ほどなくして手放してしまっていた。

1985年 XA4 (macro QD)
 28mm/F3.5の広角単焦点レンズを搭載した希少なカメラ、
 記憶に頼る範囲では、28mm単焦点の銀塩コンパクト機は、
 このXA4の他には、NIKON 28Ti、NIKON mini(AF600)
 RICOH GR1シリーズ各機、FUJIFILM Tiaraシリーズ、
 FUJIFILM KLASSE W、MINOLTA TC-1、KONICA現場監督
 28WB等、数える程しか存在して無かったと思う。
 ただし、上記の中では、本機XA4だけがMF機である。

 上記は、高価すぎるNIKON 28TiとRICOH GR1v、そして
 銀塩末期のKLASSE Wの3機種を除いて全て所有していた。
 基本的には、28mm単焦点広角機はマニアックであり、
 所有欲をそそる訳だ。

 XA4の最短撮影距離は30cm、マクロと称するのは、
 多少はオーバーな表現とは思うが、寄れる銀塩コンパクト
 機は、あまり前例が無い。
 ただ、目測式ピントなので、確かストラップに30cmの
 目印がついていたように記憶している。
 1990年代後半には、GR1シリーズが私の主力機に
 なっていたので、さすがの広角機の草分け的なXA4も、
 もう出番が無くなってしまっていた・・

XAシリーズは、なかなかマニアックで良いと思うし、
ある視点においては格好良い。私は未所有だが、XA2は
カメラ界初の「グッドデザイン賞」を受賞している。
XAの正統後継機(後述)のμ(ミュー)シリーズも
デザインが良い機体が多く、オリンパス機が「お洒落」
(ファッショナブル)という世間的なイメージは、この
時代から生まれて来たのであろう。

しかしながら、世の中は既に1970年代末から、AF搭載の
コンパクト機が主流になってきている。一応オリンパスも
C-AF(1981年)や、ピカソ(1983年~)シリーズで、
やや遅ればせながらAF化に追従はしているのだが、依然、
MFのXAシリーズを「主役」と見ていた節もあったのだろう。

まあ、結局のところ、オリンパスにおけるAF化への着手の
遅さが、αショック(1985年)以降に、OMシステムの
AF化の失敗に結びついたのかも知れない。

でも、写真を撮るという行為の上では、初期AFの性能では
「あっても無くても一緒」という気もしないでは無いので、
マニア層に向けたXAシリーズのコンセプト上では、AFは
不要だったとは言えるが、それでも一般ユーザーはそうは
思わない。このXA4の発売直後の時代には、世の中では
「AFは最新技術であり、これでようやく一般層の誰でもが
 写真を撮れるようになった。AFでなければカメラにあらず」
・・という風潮や概念が急速に広まってしまった訳である。

前述の天才技術者「米谷美久」氏は、この大変な時期に
何をしていたのか? と思えば、XA4やαショックの前年、
1984年に取締役に昇進している。まあ、PENやOM-SYSTEM、
そして、グッドデザイン賞も受賞したXA2等の開発の功績
(注:XA2のデザインは、米谷氏、本人の手によるものだ)
による昇進だとは思うが、もしかすると、その時点で開発の
最前線からは離れてしまっていたのかも知れない・・?
(あるいは、開発を統括していたとしても、もしかすると
初期の未成熟なAF性能に対して「こんなAFならば、MFの方が
ずっとマシだ」とか、また拘りを貫いたのかも知れない・・)
まあ、今となっては、そのあたりの真相は闇の中だ。

さて、以降は、1990年代の銀塩AFコンパクト機である。

1991年 μ(ミュー)(Limited)
 AF化に出遅れたオリンパスではあったが、1990年代の
 μ(ミュー)シリーズで、大きく盛り返す。

 スライドバリアー方式で、スタイリッシュな「μ」は、
 XAシリーズの正統な後継機と言えるであろう。
 勿論AFであり、初代μでは35mm/F3.5の高性能単焦点
 レンズを搭載、そして最短撮影距離も、XAの85cmから、
 35cmまで大幅に短縮されている。

 私は、初代μに加えて、その限定版、鏡面仕上げの
 μ Limitedも所有していた(全世界5万台限定発売)
(と言うか、μを下取りしてμ Limitedに買い替えた。
 ノーマルμが中古で6000円での購入、Limited版は
 新品在庫品で17000円の購入価格であった)

 Limited版は美しいカメラであったが、すぐに指紋で
 ベトベトに汚れてしまうのが難点であり、付属品として
 ボディを磨くクロス(セーム革)が付属していた。
 カメラ本体は、いったい誰に譲ったのか? もう覚えて
 もいない位であるが、その付属クロスだけは、何十年間
 もの間、ずっとカメラバッグに入ったままであり(笑)
 出先でレンズが汚れた際には、今もそれで拭いている。

 初代μは、なかなか良かったのだが、以降の銀塩μシリーズ
 は、ほぼ全てがズーム搭載機となって、マニアックな視点
 から後継機は全く興味が持てなくなってしまっていた・・

1994年 LT-1
 外観が合成皮革で覆われた独特の雰囲気を持つ単焦点AF
 コンパクト機。型番のLTとは、Leather(皮)の意味か?
 希少な単焦点機ではあったが、しかし従前の「μ」と
 性能差は無い模様で「単なる外観変更版」に過ぎない
 ように思えたので、μ Limietedを残し、この機体は
 早々に譲渡してしまっていた。

1997年 μ(ミュー)-Ⅱ
 この時代になって、ようやく新開発の単焦点機が登場。
 XA、そして初代μの流れを(正統に)汲むコンパクト機
 である。

 35mm/F2.8高描写力単焦点。このレンズの性能は、
 只者ではなく、当時、市場で大人気であった各社の高級
 コンパクトを時に凌駕する高描写力を魅せてくれた。

 マニア層も、この機体には過敏に反応。ポケットに入る
 小型超高性能機であった事から、そしてこの年からTV放送
 が始まり人気であった「ポケモン(ポケットモンスター)」
(注:1997年12月に、TV視聴者の多くが光過敏性発作を
 起こした事件が発生、「ポケモンショック」と呼ばれた)
 ・・の登場キャラクター「ミュウツー」にもちなんで、
 本機μ-Ⅱも、マニアの間では「ポケットモンスター」
 と呼ばれる事が定着していった。

 マニア向け販売のみならず、人気女優・モデルの「りょう」
(前年に高視聴率TVドラマの「ロンバケ」に出演)を広告に
 起用し、スタイリッシュなイメージを強調する等、一般層
 向けにも力を入れていた。
 この機体の生産台数は、380万台超え、とも言われていて
 その数値が正しいとすれば、(注:異常に大きな数字
 なので、あまり信用に値しない)一般レベルにおいても
 かなりのビッグセールスとなったカメラであろう。
 
1998年 μ-Ⅱ Limited
 上記のように、μ-Ⅱは、非常に高性能であり、私は
「銀塩普及コンパクト機最強のカメラ」と定義している。

 だが、個人的には「せっかく隠れた名機を見つけた」と
 喜んでいたのに、妙にこの機種がマニア層や一般層の間で
 有名になってしまったのは、どうにも面白く無い(汗)

 そこでμシリーズの累計販売台数が1000万台に到達した
 のを記念して新発売された、限定版(国内5000台)の
 μ-Ⅱ Limited(1998年)に買い換えた次第である。
(ノーマルのμ-Ⅱが新品購入価格28000円程、限定版も
 価格は全く変わらず、新品で28000円であった)
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 ノーマルのμ-Ⅱは、銀色(シャンパンゴールド?)又は
 黒の塗装色であったが、Limitedは、なんとも言えない
 漆塗り風のブラックメタリックカラー仕上げとなっている。
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 レンズ廻りの金色は、ちょっと成金趣味的で、品が無く、
 デザイン的にいただけないが、バリアーを閉じてしまえば、
 上品な雰囲気をかもしだしてくれる。
 また、初代μ Limitedのように指紋で汚れる事も少ない。
 外観以外の性能はノーマル機と一緒だ。
 これで銀塩最強コンパクト機μ-Ⅱを、よりマニアックに
 使い続ける事が出来るようになり、満足であった。
 
 この機体は、2000年代後半、銀塩終焉期まで愛用して
 いたが、さすがにその後は使っていない。今でも一応
 完動はする。他のオリンパス・コンパクト機は、殆ど
 デジタル時代に入って処分してしまったが、本機は
 その性能および歴史的価値の高さから大事に保管している。
 
 ただ、本機の存在のおかげで(せいで?)銀塩(高級)
 コンパクト機へのコスパ感覚がシビアになってしまった。

 つまり私も、流行の高級コンパクト機を、本機の何倍
 もの高値で多数購入していたのが、安価な本機μ-Ⅱで、
 それらに勝るとも劣らない描写力を持つのであれば・・
「いったい、高級コンパクトの”高級”って何??」
 という素朴な疑問が沸きあがってしまったのだ。
 
 まあ、絶対価値感覚(すなわち、コスパ感覚に直結する)
 を養う、という意味で良い教材になったカメラが、本機
 μ-Ⅱ(Limited)であっただろう。

 つまり、ぶっちゃけ言えば、「値段が高いから」とか
「有名なメーカーの製品だから」とか、「誰かが良いと
 言ったから」とか、そういった類の、消費者層が持つ
 ありきたりの価値感覚が、全くの的外れで、意味が無く、
 それどころか多くの場合で、それは正しい情報では無く、
 むしろ弊害だ、という事実を痛感した次弟である。
 以降、私は自分自身が多数の機材を使う事で身について
 いく自分の価値観だけを信じる事となった。

1998年 NEWPIC M10 Macro
 では、本記事でのラストの機体の紹介だ。
 本機は、「超接写」APS単焦点コンパクト機で、
 10cmまでの接写が可能であり、当時としては希少、
 というか、画期的な性能を持ったカメラである。
_c0032138_08430283.jpg
 超接写を実現するには、ウルトラマクロモードにするが、
 この時、本来は25mm/F6.7のレンズが、なんとF44まで
 絞り込まれる。この際の被写界深度は、仮にAPSフィルム
 での許容錯乱円を0.03mmとすれば、撮影距離20cmの時、
 およそ20cmの範囲(深度)つまり10~30cmの距離だ。

 が、この状態では露出が合わない。そこで本機においては
 ウルトラおよびスーパーマクロモードの接写時は、必ず
 内蔵フラッシュが焚かれる。

 恐らくはGN(ガイドナンバー)が6程度の内蔵フラッシュ
 なので、これを発光すると、ISO400のフィルムの場合、
 フラッシュ到達距離は、簡単な公式により
 GN6/F44x√(400/100)=約27cmとなる。
 すなわち、被写界深度に相当する10~30cm程度の
 距離範囲は、フラッシュ光だけで撮れるようになる。

 これはなかなか凄い発想のカメラであるが、このアイデア
 は、オリンパス独自の物ではなく、(COSINA社と並んで)
 銀塩時代での巨大OEMメーカーの「GOKO」社による技術で 
 同社製のマクロマックスシリーズ(数機種あり)あるいは
 従前の「ユニバーサルフォーカス」(UF-2)が元祖である。

 GOKO(旧:三星光機、1953年創業)は、世の中に殆ど
 名前が出ない巨大OEMメーカーである。
 1960年代、8mmフィルムの編集機での世界シェアが、
 何と85%以上という驚異的な実績を足がかりとして、
 1980年代からは、銀塩コンパクト機の製造に進出。

 1990年前後では、国内大手カメラメーカー8社中の
 7社の低価格帯銀塩コンパクト機を製造していた。
 その時代、GOKO製銀塩コンパクト機の生産台数は
 年間420万台、その生産台数は、当時世界一であり
(注:これは多分信頼のおける数値。なので、μ-Ⅱが
 380万台も売れた、という数字は、どうも怪しい。
 オリンパスでも当然、GOKO社でカメラを製造して
 いただろうからだ・・)
 この時点での、世界シェアは実に数10%にも及んだ
 と言われている。まあつまり、殆どのコンパクト機
 がGOKO製であり、有名なメーカー銘は、単に、その
 カメラに印刷された名前でしか無かった訳だ。

(注:後年2000年頃の低価格デジタル・コンパクト機
 は、GOKO社では無いが、他の巨大OEMメーカーが、
 その殆どを生産していた。ここでも同様に、各カメラ
 のブランド銘など、何の意味も持っていなかった訳だ。
「どこぞのメーカーのカメラは良い」とか思い込んでいる
 消費者層には、この歴史的事実を理解して貰いたい)

 GOKOのメーカー銘が世に知られる事は無かったのだが、
 この特異なアイデアのカメラだけは、自社ブランド銘でも
 発売した。(注:マクロマックスのアイデアの大元は、
 1980年代のGOKO UF-2(未所有)である)
 私は同社製マクロマックスFR-2200も所有していたが
 本機M10と全く同一仕様のカメラであったので、デザインが
 優れた本機を残し、GOKO版を知人に譲渡した次第である。
 でも、いずれも後年に残すべき、極めて特異なコンセプト
 の、歴史的価値の高いカメラである事は間違いない。

 ちなみに、絞り込んでフラッシュ光のみで撮る技法は
 多くのデジタル機でもシミュレートする事は可能だ。
 まあでも、F44程度まで絞れるレンズや、最短撮影距離
 が10cmと短いレンズも、なかなか無いが、そのあたりは
 あまり厳密には考えずに、ミラーレス機や高性能デジタル
 コンパクト機で試してみると、なかなか楽しいであろう。
(下写真は、SONY NEX-7とOLYMPUS OM50mm/F3.5Macro
を用いて、本機と同様の原理・技法を用いて撮影した例)
_c0032138_08430293.jpg
 ただまあ、この技法を使う際は、少なくとも前述の
「フラッシュ到達距離の公式」を覚え、常にその値を
 撮影現場で暗算できるようにしておかなくてはならない。
「難しい」とは思うなかれ、GN(ガイドナンバー)とは
 暗算でもできるように、と決められた簡略化単位なのだ。
 これを、ルクスやルーメンやフートキャンドルで計算
 していたら、誰も暗算ではフラッシュの到達距離は計算
 する事が出来ない。

オリンパスの銀塩コンパクト機の総括としては、
マニアックな機体については、だいたい今回の紹介機のみ
となるだろう。オリンパスの持つ「マニアックな」という
要素を重視するならば、選択肢はこれらしかなかったし、
あるいは別のイメージである「大衆機」を欲しいならば
他の多くのコンパクト機は、それに近いものがあったと思う。

ただまあ、いずれにしても現在において、中古市場で
(PENシリーズを除く)これらのマニアックなオリンパス
銀塩コンパクト機を探して入手するのは極めて難しい。
ほぼ全てが、その時代での「消耗機」であったからだ。
そして今更ながら無理をして探す必要も殆ど無い事であろう。


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さて、今回の記事はこのあたりまでで・・ 
丁度銀塩時代が終焉した頃である。
次回記事は、OLYMPUS編の後編として、デジタル機の
変遷を紹介していこう。



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