各カメラメーカーが発売した銀塩・デジタルのカメラを、
およそ1970年代から、現代2020年代に至る迄の、
約50年間の変遷の歴史を世情等と絡めて辿る記事である。
勿論、紹介機は、全て所有しているものに限る。
過去所有していて「現在未所有」とういう機体は
稀に話としては出てくるが、未購入・完全未所有の
機体については、説明や紹介のしようが無い訳だ。
また、当然ながら、他から借りて来た機材とか、
一応買ったが、短時間だけ軽く評価したら、すぐに
処分してしまう事等も、本ブログでは一切あり得ない。
そういう状態では、機材の本質など、わかりようも
無いからだ。
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今回はOLYMPUS編(前編)として、主に銀塩時代のOLYMPUS
のカメラ(一眼レフ、コンパクト機)を中心に紹介する。
ご存知のように、OLYMPUSは、2020年にカメラ事業を
分社化し、2021年からは「OMデジタルソリューションズ
株式会社」という投資事業で、カメラの製造販売を
行っている。なお、当面の間、カメラのブランド銘は
「OLYMPUS」のままの模様だ。
で、現在、私が保有しているOLYMPUS機は主に1980年代
以降の物に限られる。それ以前の時代の銀塩OLYMPUS機
も色々と所有してはいたが、デジタル時代に入った頃に
「古くて実用価値無し」という理由で、殆どを処分して
しまっている。
私は「コレクター」ではなく、全ての所有機材を実際に
使用する「実用派マニア」であるから、こういう考え方も
当然であろう。
それから、世間一般層でのOLYMPUSのカメラといったら
どういうイメージであろうか?
「マニア向け、通好み」「小型軽量なカメラ」「大衆機」
「マクロが優れている」「お洒落なイメージ」「医療向け」
まあどれも正しいと思う、それらの世間的なイメージが
何故定着したのか?も、本記事中で説明していこうと思う。
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ではまず、OLYMPUS製カメラの歴史から簡単に説明しよう。
*OLYMPUSカメラの黎明期 1930年代~
オリンパスは今からおよそ100年前の、1919年より
顕微鏡、体温計などの理化・医療向けの機器を製造販売
していた、国内ではかなり老舗の光学機器メーカーである。
(注:思えば、オリンパスが「100周年」を大々的に
記念しなかった事は、もう、その時点で既に、写真事業
からの撤退を決めていたからではなかろうか・・?)
1930年代頃からは、写真用カメラ事業にも参入する。
この時期は本シリーズ各記事においても、CANON、MINOLTA、
RICOHなど、多くのカメラメーカーが市場参入している事が
わかるであろう。また、海外メーカーにおいてもCONTAXや
ライカ等の市場参入も、丁度この時代である。
日本では昭和(1926年~)の初期の、この時代に、何故
国内外の多くのメーカーがカメラ事業を始めたのか?
その理由は良くわからない、歴史を辿ってみても軍事的な
面での出来事や社会的な不穏がとても多かった時代ではある。
それとも、当時のカメラのほぼ全てが、軍事的な用途や
社会的な報道/記録用であったのだろうか? なにぜ当時の
ライカやコンタックス機は現代の貨幣価値で300万円にも
およぶ超高額商品だから、一般層が買えるものでは無い。
やはり当時のカメラは、そうした「特別な用途」に使う
ものであったのだろうか・・ だとすればカメラは一種の
「光学兵器」とも言えるだろうから、国家等がその研究
開発を支援していたのであろうか?(特に、当時のナチス
ドイツは、ヒトラー政権である。軍事が主体であろう)
まあ、今となっては、そのあたりの真相は闇の中であるし、
もしそういう事だとすれば、切実かつ暗い歴史であるから、
あまり呑気に「戦前のライカやコンタックスは高性能で
あった」などの話を、カメラマニア的視点でするのも、
ちょっと的外れなのかも知れない。
*第二次世界大戦と戦後の時代 1940年代~
さて、大戦中(1939年~1945年)では、国内外の各カメラ
メーカーからの一般層へのカメラ販売は無い。恐らくは
全てのカメラ・光学機器メーカーが「軍需工場」に指定
され、軍事用の光学機器等を作っていただろうからだ。
そして、ドイツの敗戦により、戦後、ツァイスは東西に
分かれてしまい、その後も色々とあったのだが・・
まあその件は本記事とは無関係だ、本シリーズ第10回記事
のCONTAX編を参照していただきたいのだが、CONTAXや
ツァイスのブランドを単純に信奉する現代の初級マニア層に
おいては、あまり気持ちの良い歴史では無い事は述べておく。
(特に、2020年頃から、国産CONTAXのカメラやレンズの
中古相場が酷く高騰している。このブランドの歴史が良く
わかっていない人達による「投機的相場」だと思われる)
まあ現代においては、カメラのファン層は「どのカメラや
レンズが良い」などの呑気な話が出来る平和な世情では
あるが、カメラの変遷の歴史を辿っていく上では、どんな
有名ブランドであっても、戦争や世情の変化などの影響を
とても強く受けている、その歴史は決して平和的な物でも
無いし、順風満帆という訳でも無いのだ。
大戦後、1950年代には、オリンパスは国産初(世界初)
の医療用内視鏡(胃カメラ)の開発に成功する。
その後1960年代には、内視鏡にファイバー・スコープを
採用している。
この大発明から、オリンパスは医療分野に深く係わるように
なり、後年での「オリンパスのカメラは医療向け」という
イメージは、ここから生じている事となる。
また、この頃から、中判や35mm判カメラの製造販売が
復活している。
*ハーフ判カメラの大ヒット 1960年代~
戦後の復興がだいたい終わった時代には、カメラは一般層
への普及が始まる。
勿論戦時中のような暗い軍事用途ではなく、「冠婚葬祭」
とか「ハレの日」や「旅行」等、を一般庶民が個人的な
理由で映像を記録する為の”民生用途”機である。
で、当初、写真用フィルムは贅沢品で高額であった為、
オリンパスでは、35mm判フィルムを2分割して使用する
いわゆるハーフ判カメラである「PEN(ペン)」シリーズ
を発売する。これは世情に合って大ヒット商品となり、
1959~1986年迄の長期に渡り800万台(注:旧来は
1700万台と言われていたが、近年に下方修正された。
オリンパスの分社化における、過去情報の見直し
により発見された事実だったのかも知れない)
もの膨大な生産(販売)台数があったと言われている。
世間の誰もが「ペンを持っている」という状況でもあった
と思われ、オリンパスのカメラが「大衆機」であるという
イメージはここから出てきている。
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上写真は、OLYMPUS-PEN EES-2 (1968年)
(注:OLYMPUSとPENの間にはハイフン(-)が入る)
PENシリーズは実に沢山の機種があるのだが、まあカメラ
マニアであれば、どれかは押さえておく必要があるだろう。
それだけ歴史的価値の高いカメラである。
また、壊れ難い構造の機種も多く、発売後50年やそこらを
経過しても、今なお完動する機体も多いと思う。
なお、言うまでも無い事だが、2009年からのオリンパス
ミラーレス機において、PENの名前がブランド(シリーズ)
名として復活し、現代に至っている。
(注:現代のデジタルPENシリーズでは「OLYMPUS PEN」と、
ハイフンが入らない。ただし「PEN-F」は例外で、近代の
デジタル機では型番側にハイフンありで、昔の銀塩機の
場合では「OLYMPUS-PEN F」となっている)
*一眼レフ OM-SYSTEMの時代 1970年代~
オリンパスは1970年代に一眼レフ(M-1/OM-1)の開発販売
を開始する。主要な設計者は、天才と称され、国内カメラ
史上で最も有名なカメラ技術者「米谷美久」氏である。
彼はPENシリーズやXAシリーズの設計も手がけているが、
あまりに著名であり、世の中やネット上には、彼の功績や
開発の逸話などは、いくらでも情報がある為、その詳細は
割愛しよう。
OM-SYSTEM(旧:Mシステム)は、開発コードの一種で
あり、正式な製品名では無いと思われ、OM-SYSTEM、
OM SYSTEM、OMシステム等、いくつかの表記があると
思うが、どれが正しいか?は不明である。
実際の銀塩OM用レンズ上の表記は「OM-SYSTEM」なので、
それが正解だとは思うが、本ブログでは、適宜、それらを
混在して使っている場合もある。
さて、OM-SYSTEMの特徴はいくつかある。
1:小型軽量な一眼レフ(当時世界最小、最軽量)と交換レンズ
2:小型であっても性能や品質を妥協していない事
3:開発面、利用者面での徹底した標準化・汎用化思想
4:医療用途との親和性
まあ、この中で4)に関しては、前述の胃カメラ開発等により
オリンパスが医療分野に強かった(実績や販路がある)から
であろう、一般層においても「マクロに強いオリンパス」
というイメージが定着したのも、この医療分野との連携が
あると思う。
(関連記事:特殊レンズ第2回OLYMPUS MACRO編)
で、1)~3)は「設計思想」である。これは現代でも勿論
通用するだろうコンセプトであるが、面白い事に、この点
においては、現代のOLYMPUS機や他社機よりも、この時代の
OM-SYSTEMの方が、そうした拘りの思想が、より強い。
まあ、ごく単純な例を挙げれば、OM用ZUIKOレンズ群の
開放F値やフィルター径を、ビシっと統一するとか、
OMヒトケタ機の付属品等が、どれも共通で使えるとか、
徹底したカメラの小型軽量化等である。
で、近代のデジタル時代でのPEN系機体では、小型化の
名目で、内蔵フラッシュを外して、外付けにしたりするが、
この時代であれば、そんな事をしたら
「小型化しても性能を妥協するな!」と一喝されたであろう。
(注:銀塩PENにフラッシュは内蔵されてはいないが、
あくまでカメラの設計開発に係わる「意識」の話である)
ちなみに、M-1(1972年。ただしエルンスト・ライツ社
(ライカ)からの、言いがかりにも近いクレームにより、
1973年には、やむなくOM-1に改名されている。
・・まあ現代の視点からは、ライカMシリーズの、たった
1文字の「M」に「商標としての識別力」は存在しない為、
徹底抗戦が望ましかったと思うが、当時はそうした訴訟を
嫌う世情でもあった事であろう)・・は、発売当時に
おいて世界最小、最軽量の一眼レフであった。
この事は、PENTAXがOM-1を強く意識して全寸法を0.5mm
ずつ小さく設計し開発されたPENTAX MX(1976年)により、
4年後に世界最小の座は奪われるが、最軽量については、
引き続きOM-1が第一位であった。
(参考:ちょうどこの時代、西独カール・ツァイス社が
カメラ事業から撤退し、「CONTAX」のブランドをPENTAX
(旭光学工業:当時)に移譲する話を持ちかけたそうだが
PENTAXは、その話を受けなかった、との事。
まあ、この「OM-1対抗」の逸話は、当時のPENTAXの企業と
しての志向性・思想を如実に表すものであり、独自性や
対抗心、一眼レフの草分けメーカーとしてのプライド等が
強く見てとれる。まあ、こういう方向性なのであれば、
「有名ブランド」の知名度に頼るような市場戦略は
PENTAXとしては、受け入れがたいものであるように思える)
・・で、オリンパスのカメラが「小型軽量である」という
世間的なイメージは、このセンセーショナルなM-1(OM-1)
によるものである。
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さて、1970年代は、AE(自動露出)化の時代でもあった。
よって、OMシステムでも、偶数番機(OM-2系、OM-4系)
にAE機能を与える事となる。
また、OM-2からは「TTLダイレクト測光」という、通好み
の特殊機構が内蔵されている。これの採用機は、一眼レフ
全体を通して、数える程しか存在していない。
(参照:銀塩一眼レフ第7回「PENTAX LX」編)
(注:特にAF時代に入ってからは、TTL光をAF(位相差)
センサーに割り振る必要があり、TTLダイレクト測光
機構との両立が難しかったからだと思われる)
勿論、AE等が入ったからと言って、カメラが大きくなったり
レンズの互換性が失われる訳では無い。繰り返しになるが
OMシステムの設計思想における拘りは半端では無いのだ。
後の時代、この徹底した強い拘りの設計思想に魅かれる
「OM党」は、中上級マニアの中で多数現れている。
私もその1人であり、「OMヒトケタ機を全部揃えたい」と
思って、後年にそれを画策した。それは一応2000年頃に
実現したのだが、すでに世の中は、AF時代からデジタルに
切り替わろうとしている世情であり、1970年代当時に、
いかに先進的であったとしても、もうすでに発売から
四半世紀を超えた古い設計思想のカメラでしか無い現実を
目の当たりにして、「OM熱」は一気に醒めてしまった。
(注:それでも、こうした「強い拘りの設計思想」は、
マニア的視点からは魅力的だ。現代のカメラは、市場縮退
(=売れない)の理由もあり、ここまでの「強い拘り」を
全く持っていない。まあ、だから、現代のマニア層は近代の
カメラに、ほとんど興味を持てない状況なのだ・・)
で、私の手元にいくつもあったOM機は雲散霧消し、現在に
おいても残しているのは比較的新しい2機種のみである。
OM-4Ti(1986年、銀塩一眼第13回記事、上写真)と、
OM2000(1997年、銀塩一眼第22回記事、下写真)
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参考の為、以下、OMヒトケタシリーズ全機種名と、
その発売年をあげておこう。(注:MD,N等の派生型を除く)
なお、機種名にハイフンが入るのはOMヒトケタシリーズのみ
である。(例:OM10、OM707、OM2000等はハイフン無し)
1972年 M-1(後にOM-1)
1975年 OM-2
1983年 OM-4
1984年 OM-2SP
1984年 OM-3
1986年 OM-4Ti(注:AF時代)
1994年 OM-3Ti(注:AF時代)
まあ、このようにAF時代に入ってからもなお、OM-SYSTEM
はMF機を販売していた訳であるし、後述のOM-SYSTEM用
交換レンズ「ZUIKO」の値上げもあって、1990年代のOMは、
「マニア向けの贅沢なシステム」という感じになっていた。
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記事冒頭に述べた、「OLYMPUS機はマニア向け」という
イメージは、この時代、1990年代に根付いた訳である。
*OM-SYSTEM用 ZUIKO 交換レンズ 1970年代~1990年代
OM-SYSTEM用の交換レンズ「ZUIKO」は、特殊なAF試作機
(OM707,OM101)用を除き、全てがMFレンズである。
(注:「ZUIKO」と、全て大文字で書かれる事が殆どだ)
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その「ZUIKO」の特徴は以下の通り
1:多数のバリエーション豊かな製品ラインナップ
(「宇宙からバクテリアまで」(何でも撮れる)という
開発コンセプトをかかげていた)
2:いずれも小型軽量であるが、描写力は妥協していない
3:フィルター径の徹底的な統一(φ49mm、φ55mm)
4:開放F2版レンズが、21mm~250mmまで幅広く存在する
5:多くの焦点距離で大口径(F2級)版と小口径(F3.5級)版
が並存する(注:必ずしも大口径版が高描写力では無い)
6:医療用等、特殊マクロレンズが何本も存在する
7:操作性に「左手思想」が採用されている
(「左手思想」は、匠の写真用語辞典第1回記事参照)
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これらのレンズ群について詳しく述べているときりが無い
ので大幅に割愛する。たいていは過去記事で何度も紹介
しているとは思うが、あまりまとまった形での記事は無い。
参考記事としては「特殊レンズ・超マニアックス第33回
OLYMPUS OM-SYSTEM F2編」を参照されたし。
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なお、マクロレンズのラインナップが多く、かつ優秀なのは
前述の理由で、医療分野との関係が強く、そこで使える
マクロレンズを多数開発した事も理由であろう。
ニーズがあれば、気合の入った設計となり、性能も向上
していく好循環だ。すなわち得意分野となった訳だ。
![_c0032138_08425705.jpg]()
注意すべきは、OMシステムは、1980年代にAF化に失敗し
1990年代を通じてMFのZUIKOレンズを継続販売していた。
この為、何度かの値上げがあって、最終期においては
かなり割高な様相もあった。これではなかなか売れない。
・・で、あまり販売数が多くなければ、レアなレンズは
とても希少となってしまう。なので後年には投機層等が
これに着目し、プレミアム相場で希少レンズを転売する
事も多々ある。だが、勿論、希少で高価なレンズである
事と、性能や描写力が高い事は、全くイコールでは無い。
単に「珍しい」という理由だけで、高価すぎるそれらを
欲しがる事は、ほとんど意味が無いので念のため。
(つまり、それは「マニア道に外れる」という意味である)
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*OLYMPUS コンパクト機 1980年代~1990年代
こちらも色々と持ってはいたが、現有している機体は
とても少ない。まあ、過去所有機を中心に、代表的な
マニアック機種について紹介しておこう。
1979年 XA
MFながら、35mm/F2.8高性能単焦点レンズと、絞り優先
機能を備えた、マニアックなバリア型小型コンパクト機。
二重像合致式距離計、すなわちレンジファインダー機で
あるとも言える。(以降のXAシリーズには、この距離計
機構は搭載されていない)
この機種が有名になったのは、写真家の田中長徳氏の
著書「銘機礼讃」(1992年)に「オリンパスXAの女」
という叙情的な名作エッセイが載っていて、それを
読んだマニア層が、こぞってXAを欲しがったからだ。
・・ただ、少々その波及力が強すぎたかも知れない。
元々セミレアな機種であり、なかなか入手困難に
なってしまい、私が1990年代末頃に、やっと1台それを
見つけて買った時には、19000円もの高値となっていた。
まあでも、性能や機能が優れていたので、しばらくは
機嫌よく使っていたが、最短撮影距離が85cmと、とても
長くて(距離計連動機構での制限か)不満だったのと、
描写力も後述のμ-Ⅱと比べると見劣りする点があり、
ほどなくして手放してしまっていた。
1985年 XA4 (macro QD)
28mm/F3.5の広角単焦点レンズを搭載した希少なカメラ、
記憶に頼る範囲では、28mm単焦点の銀塩コンパクト機は、
このXA4の他には、NIKON 28Ti、NIKON mini(AF600)
RICOH GR1シリーズ各機、FUJIFILM Tiaraシリーズ、
FUJIFILM KLASSE W、MINOLTA TC-1、KONICA現場監督
28WB等、数える程しか存在して無かったと思う。
ただし、上記の中では、本機XA4だけがMF機である。
上記は、高価すぎるNIKON 28TiとRICOH GR1v、そして
銀塩末期のKLASSE Wの3機種を除いて全て所有していた。
基本的には、28mm単焦点広角機はマニアックであり、
所有欲をそそる訳だ。
XA4の最短撮影距離は30cm、マクロと称するのは、
多少はオーバーな表現とは思うが、寄れる銀塩コンパクト
機は、あまり前例が無い。
ただ、目測式ピントなので、確かストラップに30cmの
目印がついていたように記憶している。
1990年代後半には、GR1シリーズが私の主力機に
なっていたので、さすがの広角機の草分け的なXA4も、
もう出番が無くなってしまっていた・・
XAシリーズは、なかなかマニアックで良いと思うし、
ある視点においては格好良い。私は未所有だが、XA2は
カメラ界初の「グッドデザイン賞」を受賞している。
XAの正統後継機(後述)のμ(ミュー)シリーズも
デザインが良い機体が多く、オリンパス機が「お洒落」
(ファッショナブル)という世間的なイメージは、この
時代から生まれて来たのであろう。
しかしながら、世の中は既に1970年代末から、AF搭載の
コンパクト機が主流になってきている。一応オリンパスも
C-AF(1981年)や、ピカソ(1983年~)シリーズで、
やや遅ればせながらAF化に追従はしているのだが、依然、
MFのXAシリーズを「主役」と見ていた節もあったのだろう。
まあ、結局のところ、オリンパスにおけるAF化への着手の
遅さが、αショック(1985年)以降に、OMシステムの
AF化の失敗に結びついたのかも知れない。
でも、写真を撮るという行為の上では、初期AFの性能では
「あっても無くても一緒」という気もしないでは無いので、
マニア層に向けたXAシリーズのコンセプト上では、AFは
不要だったとは言えるが、それでも一般ユーザーはそうは
思わない。このXA4の発売直後の時代には、世の中では
「AFは最新技術であり、これでようやく一般層の誰でもが
写真を撮れるようになった。AFでなければカメラにあらず」
・・という風潮や概念が急速に広まってしまった訳である。
前述の天才技術者「米谷美久」氏は、この大変な時期に
何をしていたのか? と思えば、XA4やαショックの前年、
1984年に取締役に昇進している。まあ、PENやOM-SYSTEM、
そして、グッドデザイン賞も受賞したXA2等の開発の功績
(注:XA2のデザインは、米谷氏、本人の手によるものだ)
による昇進だとは思うが、もしかすると、その時点で開発の
最前線からは離れてしまっていたのかも知れない・・?
(あるいは、開発を統括していたとしても、もしかすると
初期の未成熟なAF性能に対して「こんなAFならば、MFの方が
ずっとマシだ」とか、また拘りを貫いたのかも知れない・・)
まあ、今となっては、そのあたりの真相は闇の中だ。
さて、以降は、1990年代の銀塩AFコンパクト機である。
1991年 μ(ミュー)(Limited)
AF化に出遅れたオリンパスではあったが、1990年代の
μ(ミュー)シリーズで、大きく盛り返す。
スライドバリアー方式で、スタイリッシュな「μ」は、
XAシリーズの正統な後継機と言えるであろう。
勿論AFであり、初代μでは35mm/F3.5の高性能単焦点
レンズを搭載、そして最短撮影距離も、XAの85cmから、
35cmまで大幅に短縮されている。
私は、初代μに加えて、その限定版、鏡面仕上げの
μ Limitedも所有していた(全世界5万台限定発売)
(と言うか、μを下取りしてμ Limitedに買い替えた。
ノーマルμが中古で6000円での購入、Limited版は
新品在庫品で17000円の購入価格であった)
Limited版は美しいカメラであったが、すぐに指紋で
ベトベトに汚れてしまうのが難点であり、付属品として
ボディを磨くクロス(セーム革)が付属していた。
カメラ本体は、いったい誰に譲ったのか? もう覚えて
もいない位であるが、その付属クロスだけは、何十年間
もの間、ずっとカメラバッグに入ったままであり(笑)
出先でレンズが汚れた際には、今もそれで拭いている。
初代μは、なかなか良かったのだが、以降の銀塩μシリーズ
は、ほぼ全てがズーム搭載機となって、マニアックな視点
から後継機は全く興味が持てなくなってしまっていた・・
1994年 LT-1
外観が合成皮革で覆われた独特の雰囲気を持つ単焦点AF
コンパクト機。型番のLTとは、Leather(皮)の意味か?
希少な単焦点機ではあったが、しかし従前の「μ」と
性能差は無い模様で「単なる外観変更版」に過ぎない
ように思えたので、μ Limietedを残し、この機体は
早々に譲渡してしまっていた。
1997年 μ(ミュー)-Ⅱ
この時代になって、ようやく新開発の単焦点機が登場。
XA、そして初代μの流れを(正統に)汲むコンパクト機
である。
35mm/F2.8高描写力単焦点。このレンズの性能は、
只者ではなく、当時、市場で大人気であった各社の高級
コンパクトを時に凌駕する高描写力を魅せてくれた。
マニア層も、この機体には過敏に反応。ポケットに入る
小型超高性能機であった事から、そしてこの年からTV放送
が始まり人気であった「ポケモン(ポケットモンスター)」
(注:1997年12月に、TV視聴者の多くが光過敏性発作を
起こした事件が発生、「ポケモンショック」と呼ばれた)
・・の登場キャラクター「ミュウツー」にもちなんで、
本機μ-Ⅱも、マニアの間では「ポケットモンスター」
と呼ばれる事が定着していった。
マニア向け販売のみならず、人気女優・モデルの「りょう」
(前年に高視聴率TVドラマの「ロンバケ」に出演)を広告に
起用し、スタイリッシュなイメージを強調する等、一般層
向けにも力を入れていた。
この機体の生産台数は、380万台超え、とも言われていて
その数値が正しいとすれば、(注:異常に大きな数字
なので、あまり信用に値しない)一般レベルにおいても
かなりのビッグセールスとなったカメラであろう。
1998年 μ-Ⅱ Limited
上記のように、μ-Ⅱは、非常に高性能であり、私は
「銀塩普及コンパクト機最強のカメラ」と定義している。
だが、個人的には「せっかく隠れた名機を見つけた」と
喜んでいたのに、妙にこの機種がマニア層や一般層の間で
有名になってしまったのは、どうにも面白く無い(汗)
そこでμシリーズの累計販売台数が1000万台に到達した
のを記念して新発売された、限定版(国内5000台)の
μ-Ⅱ Limited(1998年)に買い換えた次第である。
(ノーマルのμ-Ⅱが新品購入価格28000円程、限定版も
価格は全く変わらず、新品で28000円であった)
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ノーマルのμ-Ⅱは、銀色(シャンパンゴールド?)又は
黒の塗装色であったが、Limitedは、なんとも言えない
漆塗り風のブラックメタリックカラー仕上げとなっている。
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レンズ廻りの金色は、ちょっと成金趣味的で、品が無く、
デザイン的にいただけないが、バリアーを閉じてしまえば、
上品な雰囲気をかもしだしてくれる。
また、初代μ Limitedのように指紋で汚れる事も少ない。
外観以外の性能はノーマル機と一緒だ。
これで銀塩最強コンパクト機μ-Ⅱを、よりマニアックに
使い続ける事が出来るようになり、満足であった。
この機体は、2000年代後半、銀塩終焉期まで愛用して
いたが、さすがにその後は使っていない。今でも一応
完動はする。他のオリンパス・コンパクト機は、殆ど
デジタル時代に入って処分してしまったが、本機は
その性能および歴史的価値の高さから大事に保管している。
ただ、本機の存在のおかげで(せいで?)銀塩(高級)
コンパクト機へのコスパ感覚がシビアになってしまった。
つまり私も、流行の高級コンパクト機を、本機の何倍
もの高値で多数購入していたのが、安価な本機μ-Ⅱで、
それらに勝るとも劣らない描写力を持つのであれば・・
「いったい、高級コンパクトの”高級”って何??」
という素朴な疑問が沸きあがってしまったのだ。
まあ、絶対価値感覚(すなわち、コスパ感覚に直結する)
を養う、という意味で良い教材になったカメラが、本機
μ-Ⅱ(Limited)であっただろう。
つまり、ぶっちゃけ言えば、「値段が高いから」とか
「有名なメーカーの製品だから」とか、「誰かが良いと
言ったから」とか、そういった類の、消費者層が持つ
ありきたりの価値感覚が、全くの的外れで、意味が無く、
それどころか多くの場合で、それは正しい情報では無く、
むしろ弊害だ、という事実を痛感した次弟である。
以降、私は自分自身が多数の機材を使う事で身について
いく自分の価値観だけを信じる事となった。
1998年 NEWPIC M10 Macro
では、本記事でのラストの機体の紹介だ。
本機は、「超接写」APS単焦点コンパクト機で、
10cmまでの接写が可能であり、当時としては希少、
というか、画期的な性能を持ったカメラである。
![_c0032138_08430283.jpg]()
超接写を実現するには、ウルトラマクロモードにするが、
この時、本来は25mm/F6.7のレンズが、なんとF44まで
絞り込まれる。この際の被写界深度は、仮にAPSフィルム
での許容錯乱円を0.03mmとすれば、撮影距離20cmの時、
およそ20cmの範囲(深度)つまり10~30cmの距離だ。
が、この状態では露出が合わない。そこで本機においては
ウルトラおよびスーパーマクロモードの接写時は、必ず
内蔵フラッシュが焚かれる。
恐らくはGN(ガイドナンバー)が6程度の内蔵フラッシュ
なので、これを発光すると、ISO400のフィルムの場合、
フラッシュ到達距離は、簡単な公式により
GN6/F44x√(400/100)=約27cmとなる。
すなわち、被写界深度に相当する10~30cm程度の
距離範囲は、フラッシュ光だけで撮れるようになる。
これはなかなか凄い発想のカメラであるが、このアイデア
は、オリンパス独自の物ではなく、(COSINA社と並んで)
銀塩時代での巨大OEMメーカーの「GOKO」社による技術で
同社製のマクロマックスシリーズ(数機種あり)あるいは
従前の「ユニバーサルフォーカス」(UF-2)が元祖である。
GOKO(旧:三星光機、1953年創業)は、世の中に殆ど
名前が出ない巨大OEMメーカーである。
1960年代、8mmフィルムの編集機での世界シェアが、
何と85%以上という驚異的な実績を足がかりとして、
1980年代からは、銀塩コンパクト機の製造に進出。
1990年前後では、国内大手カメラメーカー8社中の
7社の低価格帯銀塩コンパクト機を製造していた。
その時代、GOKO製銀塩コンパクト機の生産台数は
年間420万台、その生産台数は、当時世界一であり
(注:これは多分信頼のおける数値。なので、μ-Ⅱが
380万台も売れた、という数字は、どうも怪しい。
オリンパスでも当然、GOKO社でカメラを製造して
いただろうからだ・・)
この時点での、世界シェアは実に数10%にも及んだ
と言われている。まあつまり、殆どのコンパクト機
がGOKO製であり、有名なメーカー銘は、単に、その
カメラに印刷された名前でしか無かった訳だ。
(注:後年2000年頃の低価格デジタル・コンパクト機
は、GOKO社では無いが、他の巨大OEMメーカーが、
その殆どを生産していた。ここでも同様に、各カメラ
のブランド銘など、何の意味も持っていなかった訳だ。
「どこぞのメーカーのカメラは良い」とか思い込んでいる
消費者層には、この歴史的事実を理解して貰いたい)
GOKOのメーカー銘が世に知られる事は無かったのだが、
この特異なアイデアのカメラだけは、自社ブランド銘でも
発売した。(注:マクロマックスのアイデアの大元は、
1980年代のGOKO UF-2(未所有)である)
私は同社製マクロマックスFR-2200も所有していたが
本機M10と全く同一仕様のカメラであったので、デザインが
優れた本機を残し、GOKO版を知人に譲渡した次第である。
でも、いずれも後年に残すべき、極めて特異なコンセプト
の、歴史的価値の高いカメラである事は間違いない。
ちなみに、絞り込んでフラッシュ光のみで撮る技法は
多くのデジタル機でもシミュレートする事は可能だ。
まあでも、F44程度まで絞れるレンズや、最短撮影距離
が10cmと短いレンズも、なかなか無いが、そのあたりは
あまり厳密には考えずに、ミラーレス機や高性能デジタル
コンパクト機で試してみると、なかなか楽しいであろう。
(下写真は、SONY NEX-7とOLYMPUS OM50mm/F3.5Macro
を用いて、本機と同様の原理・技法を用いて撮影した例)
![_c0032138_08430293.jpg]()
ただまあ、この技法を使う際は、少なくとも前述の
「フラッシュ到達距離の公式」を覚え、常にその値を
撮影現場で暗算できるようにしておかなくてはならない。
「難しい」とは思うなかれ、GN(ガイドナンバー)とは
暗算でもできるように、と決められた簡略化単位なのだ。
これを、ルクスやルーメンやフートキャンドルで計算
していたら、誰も暗算ではフラッシュの到達距離は計算
する事が出来ない。
オリンパスの銀塩コンパクト機の総括としては、
マニアックな機体については、だいたい今回の紹介機のみ
となるだろう。オリンパスの持つ「マニアックな」という
要素を重視するならば、選択肢はこれらしかなかったし、
あるいは別のイメージである「大衆機」を欲しいならば
他の多くのコンパクト機は、それに近いものがあったと思う。
ただまあ、いずれにしても現在において、中古市場で
(PENシリーズを除く)これらのマニアックなオリンパス
銀塩コンパクト機を探して入手するのは極めて難しい。
ほぼ全てが、その時代での「消耗機」であったからだ。
そして今更ながら無理をして探す必要も殆ど無い事であろう。
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さて、今回の記事はこのあたりまでで・・
丁度銀塩時代が終焉した頃である。
次回記事は、OLYMPUS編の後編として、デジタル機の
変遷を紹介していこう。
およそ1970年代から、現代2020年代に至る迄の、
約50年間の変遷の歴史を世情等と絡めて辿る記事である。
勿論、紹介機は、全て所有しているものに限る。
過去所有していて「現在未所有」とういう機体は
稀に話としては出てくるが、未購入・完全未所有の
機体については、説明や紹介のしようが無い訳だ。
また、当然ながら、他から借りて来た機材とか、
一応買ったが、短時間だけ軽く評価したら、すぐに
処分してしまう事等も、本ブログでは一切あり得ない。
そういう状態では、機材の本質など、わかりようも
無いからだ。

のカメラ(一眼レフ、コンパクト機)を中心に紹介する。
ご存知のように、OLYMPUSは、2020年にカメラ事業を
分社化し、2021年からは「OMデジタルソリューションズ
株式会社」という投資事業で、カメラの製造販売を
行っている。なお、当面の間、カメラのブランド銘は
「OLYMPUS」のままの模様だ。
で、現在、私が保有しているOLYMPUS機は主に1980年代
以降の物に限られる。それ以前の時代の銀塩OLYMPUS機
も色々と所有してはいたが、デジタル時代に入った頃に
「古くて実用価値無し」という理由で、殆どを処分して
しまっている。
私は「コレクター」ではなく、全ての所有機材を実際に
使用する「実用派マニア」であるから、こういう考え方も
当然であろう。
それから、世間一般層でのOLYMPUSのカメラといったら
どういうイメージであろうか?
「マニア向け、通好み」「小型軽量なカメラ」「大衆機」
「マクロが優れている」「お洒落なイメージ」「医療向け」
まあどれも正しいと思う、それらの世間的なイメージが
何故定着したのか?も、本記事中で説明していこうと思う。

*OLYMPUSカメラの黎明期 1930年代~
オリンパスは今からおよそ100年前の、1919年より
顕微鏡、体温計などの理化・医療向けの機器を製造販売
していた、国内ではかなり老舗の光学機器メーカーである。
(注:思えば、オリンパスが「100周年」を大々的に
記念しなかった事は、もう、その時点で既に、写真事業
からの撤退を決めていたからではなかろうか・・?)
1930年代頃からは、写真用カメラ事業にも参入する。
この時期は本シリーズ各記事においても、CANON、MINOLTA、
RICOHなど、多くのカメラメーカーが市場参入している事が
わかるであろう。また、海外メーカーにおいてもCONTAXや
ライカ等の市場参入も、丁度この時代である。
日本では昭和(1926年~)の初期の、この時代に、何故
国内外の多くのメーカーがカメラ事業を始めたのか?
その理由は良くわからない、歴史を辿ってみても軍事的な
面での出来事や社会的な不穏がとても多かった時代ではある。
それとも、当時のカメラのほぼ全てが、軍事的な用途や
社会的な報道/記録用であったのだろうか? なにぜ当時の
ライカやコンタックス機は現代の貨幣価値で300万円にも
およぶ超高額商品だから、一般層が買えるものでは無い。
やはり当時のカメラは、そうした「特別な用途」に使う
ものであったのだろうか・・ だとすればカメラは一種の
「光学兵器」とも言えるだろうから、国家等がその研究
開発を支援していたのであろうか?(特に、当時のナチス
ドイツは、ヒトラー政権である。軍事が主体であろう)
まあ、今となっては、そのあたりの真相は闇の中であるし、
もしそういう事だとすれば、切実かつ暗い歴史であるから、
あまり呑気に「戦前のライカやコンタックスは高性能で
あった」などの話を、カメラマニア的視点でするのも、
ちょっと的外れなのかも知れない。
*第二次世界大戦と戦後の時代 1940年代~
さて、大戦中(1939年~1945年)では、国内外の各カメラ
メーカーからの一般層へのカメラ販売は無い。恐らくは
全てのカメラ・光学機器メーカーが「軍需工場」に指定
され、軍事用の光学機器等を作っていただろうからだ。
そして、ドイツの敗戦により、戦後、ツァイスは東西に
分かれてしまい、その後も色々とあったのだが・・
まあその件は本記事とは無関係だ、本シリーズ第10回記事
のCONTAX編を参照していただきたいのだが、CONTAXや
ツァイスのブランドを単純に信奉する現代の初級マニア層に
おいては、あまり気持ちの良い歴史では無い事は述べておく。
(特に、2020年頃から、国産CONTAXのカメラやレンズの
中古相場が酷く高騰している。このブランドの歴史が良く
わかっていない人達による「投機的相場」だと思われる)
まあ現代においては、カメラのファン層は「どのカメラや
レンズが良い」などの呑気な話が出来る平和な世情では
あるが、カメラの変遷の歴史を辿っていく上では、どんな
有名ブランドであっても、戦争や世情の変化などの影響を
とても強く受けている、その歴史は決して平和的な物でも
無いし、順風満帆という訳でも無いのだ。
大戦後、1950年代には、オリンパスは国産初(世界初)
の医療用内視鏡(胃カメラ)の開発に成功する。
その後1960年代には、内視鏡にファイバー・スコープを
採用している。
この大発明から、オリンパスは医療分野に深く係わるように
なり、後年での「オリンパスのカメラは医療向け」という
イメージは、ここから生じている事となる。
また、この頃から、中判や35mm判カメラの製造販売が
復活している。
*ハーフ判カメラの大ヒット 1960年代~
戦後の復興がだいたい終わった時代には、カメラは一般層
への普及が始まる。
勿論戦時中のような暗い軍事用途ではなく、「冠婚葬祭」
とか「ハレの日」や「旅行」等、を一般庶民が個人的な
理由で映像を記録する為の”民生用途”機である。
で、当初、写真用フィルムは贅沢品で高額であった為、
オリンパスでは、35mm判フィルムを2分割して使用する
いわゆるハーフ判カメラである「PEN(ペン)」シリーズ
を発売する。これは世情に合って大ヒット商品となり、
1959~1986年迄の長期に渡り800万台(注:旧来は
1700万台と言われていたが、近年に下方修正された。
オリンパスの分社化における、過去情報の見直し
により発見された事実だったのかも知れない)
もの膨大な生産(販売)台数があったと言われている。
世間の誰もが「ペンを持っている」という状況でもあった
と思われ、オリンパスのカメラが「大衆機」であるという
イメージはここから出てきている。

(注:OLYMPUSとPENの間にはハイフン(-)が入る)
PENシリーズは実に沢山の機種があるのだが、まあカメラ
マニアであれば、どれかは押さえておく必要があるだろう。
それだけ歴史的価値の高いカメラである。
また、壊れ難い構造の機種も多く、発売後50年やそこらを
経過しても、今なお完動する機体も多いと思う。
なお、言うまでも無い事だが、2009年からのオリンパス
ミラーレス機において、PENの名前がブランド(シリーズ)
名として復活し、現代に至っている。
(注:現代のデジタルPENシリーズでは「OLYMPUS PEN」と、
ハイフンが入らない。ただし「PEN-F」は例外で、近代の
デジタル機では型番側にハイフンありで、昔の銀塩機の
場合では「OLYMPUS-PEN F」となっている)
*一眼レフ OM-SYSTEMの時代 1970年代~
オリンパスは1970年代に一眼レフ(M-1/OM-1)の開発販売
を開始する。主要な設計者は、天才と称され、国内カメラ
史上で最も有名なカメラ技術者「米谷美久」氏である。
彼はPENシリーズやXAシリーズの設計も手がけているが、
あまりに著名であり、世の中やネット上には、彼の功績や
開発の逸話などは、いくらでも情報がある為、その詳細は
割愛しよう。
OM-SYSTEM(旧:Mシステム)は、開発コードの一種で
あり、正式な製品名では無いと思われ、OM-SYSTEM、
OM SYSTEM、OMシステム等、いくつかの表記があると
思うが、どれが正しいか?は不明である。
実際の銀塩OM用レンズ上の表記は「OM-SYSTEM」なので、
それが正解だとは思うが、本ブログでは、適宜、それらを
混在して使っている場合もある。
さて、OM-SYSTEMの特徴はいくつかある。
1:小型軽量な一眼レフ(当時世界最小、最軽量)と交換レンズ
2:小型であっても性能や品質を妥協していない事
3:開発面、利用者面での徹底した標準化・汎用化思想
4:医療用途との親和性
まあ、この中で4)に関しては、前述の胃カメラ開発等により
オリンパスが医療分野に強かった(実績や販路がある)から
であろう、一般層においても「マクロに強いオリンパス」
というイメージが定着したのも、この医療分野との連携が
あると思う。
(関連記事:特殊レンズ第2回OLYMPUS MACRO編)
で、1)~3)は「設計思想」である。これは現代でも勿論
通用するだろうコンセプトであるが、面白い事に、この点
においては、現代のOLYMPUS機や他社機よりも、この時代の
OM-SYSTEMの方が、そうした拘りの思想が、より強い。
まあ、ごく単純な例を挙げれば、OM用ZUIKOレンズ群の
開放F値やフィルター径を、ビシっと統一するとか、
OMヒトケタ機の付属品等が、どれも共通で使えるとか、
徹底したカメラの小型軽量化等である。
で、近代のデジタル時代でのPEN系機体では、小型化の
名目で、内蔵フラッシュを外して、外付けにしたりするが、
この時代であれば、そんな事をしたら
「小型化しても性能を妥協するな!」と一喝されたであろう。
(注:銀塩PENにフラッシュは内蔵されてはいないが、
あくまでカメラの設計開発に係わる「意識」の話である)
ちなみに、M-1(1972年。ただしエルンスト・ライツ社
(ライカ)からの、言いがかりにも近いクレームにより、
1973年には、やむなくOM-1に改名されている。
・・まあ現代の視点からは、ライカMシリーズの、たった
1文字の「M」に「商標としての識別力」は存在しない為、
徹底抗戦が望ましかったと思うが、当時はそうした訴訟を
嫌う世情でもあった事であろう)・・は、発売当時に
おいて世界最小、最軽量の一眼レフであった。
この事は、PENTAXがOM-1を強く意識して全寸法を0.5mm
ずつ小さく設計し開発されたPENTAX MX(1976年)により、
4年後に世界最小の座は奪われるが、最軽量については、
引き続きOM-1が第一位であった。
(参考:ちょうどこの時代、西独カール・ツァイス社が
カメラ事業から撤退し、「CONTAX」のブランドをPENTAX
(旭光学工業:当時)に移譲する話を持ちかけたそうだが
PENTAXは、その話を受けなかった、との事。
まあ、この「OM-1対抗」の逸話は、当時のPENTAXの企業と
しての志向性・思想を如実に表すものであり、独自性や
対抗心、一眼レフの草分けメーカーとしてのプライド等が
強く見てとれる。まあ、こういう方向性なのであれば、
「有名ブランド」の知名度に頼るような市場戦略は
PENTAXとしては、受け入れがたいものであるように思える)
・・で、オリンパスのカメラが「小型軽量である」という
世間的なイメージは、このセンセーショナルなM-1(OM-1)
によるものである。

よって、OMシステムでも、偶数番機(OM-2系、OM-4系)
にAE機能を与える事となる。
また、OM-2からは「TTLダイレクト測光」という、通好み
の特殊機構が内蔵されている。これの採用機は、一眼レフ
全体を通して、数える程しか存在していない。
(参照:銀塩一眼レフ第7回「PENTAX LX」編)
(注:特にAF時代に入ってからは、TTL光をAF(位相差)
センサーに割り振る必要があり、TTLダイレクト測光
機構との両立が難しかったからだと思われる)
勿論、AE等が入ったからと言って、カメラが大きくなったり
レンズの互換性が失われる訳では無い。繰り返しになるが
OMシステムの設計思想における拘りは半端では無いのだ。
後の時代、この徹底した強い拘りの設計思想に魅かれる
「OM党」は、中上級マニアの中で多数現れている。
私もその1人であり、「OMヒトケタ機を全部揃えたい」と
思って、後年にそれを画策した。それは一応2000年頃に
実現したのだが、すでに世の中は、AF時代からデジタルに
切り替わろうとしている世情であり、1970年代当時に、
いかに先進的であったとしても、もうすでに発売から
四半世紀を超えた古い設計思想のカメラでしか無い現実を
目の当たりにして、「OM熱」は一気に醒めてしまった。
(注:それでも、こうした「強い拘りの設計思想」は、
マニア的視点からは魅力的だ。現代のカメラは、市場縮退
(=売れない)の理由もあり、ここまでの「強い拘り」を
全く持っていない。まあ、だから、現代のマニア層は近代の
カメラに、ほとんど興味を持てない状況なのだ・・)
で、私の手元にいくつもあったOM機は雲散霧消し、現在に
おいても残しているのは比較的新しい2機種のみである。
OM-4Ti(1986年、銀塩一眼第13回記事、上写真)と、
OM2000(1997年、銀塩一眼第22回記事、下写真)

その発売年をあげておこう。(注:MD,N等の派生型を除く)
なお、機種名にハイフンが入るのはOMヒトケタシリーズのみ
である。(例:OM10、OM707、OM2000等はハイフン無し)
1972年 M-1(後にOM-1)
1975年 OM-2
1983年 OM-4
1984年 OM-2SP
1984年 OM-3
1986年 OM-4Ti(注:AF時代)
1994年 OM-3Ti(注:AF時代)
まあ、このようにAF時代に入ってからもなお、OM-SYSTEM
はMF機を販売していた訳であるし、後述のOM-SYSTEM用
交換レンズ「ZUIKO」の値上げもあって、1990年代のOMは、
「マニア向けの贅沢なシステム」という感じになっていた。

イメージは、この時代、1990年代に根付いた訳である。
*OM-SYSTEM用 ZUIKO 交換レンズ 1970年代~1990年代
OM-SYSTEM用の交換レンズ「ZUIKO」は、特殊なAF試作機
(OM707,OM101)用を除き、全てがMFレンズである。
(注:「ZUIKO」と、全て大文字で書かれる事が殆どだ)

1:多数のバリエーション豊かな製品ラインナップ
(「宇宙からバクテリアまで」(何でも撮れる)という
開発コンセプトをかかげていた)
2:いずれも小型軽量であるが、描写力は妥協していない
3:フィルター径の徹底的な統一(φ49mm、φ55mm)
4:開放F2版レンズが、21mm~250mmまで幅広く存在する
5:多くの焦点距離で大口径(F2級)版と小口径(F3.5級)版
が並存する(注:必ずしも大口径版が高描写力では無い)
6:医療用等、特殊マクロレンズが何本も存在する
7:操作性に「左手思想」が採用されている
(「左手思想」は、匠の写真用語辞典第1回記事参照)

ので大幅に割愛する。たいていは過去記事で何度も紹介
しているとは思うが、あまりまとまった形での記事は無い。
参考記事としては「特殊レンズ・超マニアックス第33回
OLYMPUS OM-SYSTEM F2編」を参照されたし。

前述の理由で、医療分野との関係が強く、そこで使える
マクロレンズを多数開発した事も理由であろう。
ニーズがあれば、気合の入った設計となり、性能も向上
していく好循環だ。すなわち得意分野となった訳だ。

1990年代を通じてMFのZUIKOレンズを継続販売していた。
この為、何度かの値上げがあって、最終期においては
かなり割高な様相もあった。これではなかなか売れない。
・・で、あまり販売数が多くなければ、レアなレンズは
とても希少となってしまう。なので後年には投機層等が
これに着目し、プレミアム相場で希少レンズを転売する
事も多々ある。だが、勿論、希少で高価なレンズである
事と、性能や描写力が高い事は、全くイコールでは無い。
単に「珍しい」という理由だけで、高価すぎるそれらを
欲しがる事は、ほとんど意味が無いので念のため。
(つまり、それは「マニア道に外れる」という意味である)

こちらも色々と持ってはいたが、現有している機体は
とても少ない。まあ、過去所有機を中心に、代表的な
マニアック機種について紹介しておこう。
1979年 XA
MFながら、35mm/F2.8高性能単焦点レンズと、絞り優先
機能を備えた、マニアックなバリア型小型コンパクト機。
二重像合致式距離計、すなわちレンジファインダー機で
あるとも言える。(以降のXAシリーズには、この距離計
機構は搭載されていない)
この機種が有名になったのは、写真家の田中長徳氏の
著書「銘機礼讃」(1992年)に「オリンパスXAの女」
という叙情的な名作エッセイが載っていて、それを
読んだマニア層が、こぞってXAを欲しがったからだ。
・・ただ、少々その波及力が強すぎたかも知れない。
元々セミレアな機種であり、なかなか入手困難に
なってしまい、私が1990年代末頃に、やっと1台それを
見つけて買った時には、19000円もの高値となっていた。
まあでも、性能や機能が優れていたので、しばらくは
機嫌よく使っていたが、最短撮影距離が85cmと、とても
長くて(距離計連動機構での制限か)不満だったのと、
描写力も後述のμ-Ⅱと比べると見劣りする点があり、
ほどなくして手放してしまっていた。
1985年 XA4 (macro QD)
28mm/F3.5の広角単焦点レンズを搭載した希少なカメラ、
記憶に頼る範囲では、28mm単焦点の銀塩コンパクト機は、
このXA4の他には、NIKON 28Ti、NIKON mini(AF600)
RICOH GR1シリーズ各機、FUJIFILM Tiaraシリーズ、
FUJIFILM KLASSE W、MINOLTA TC-1、KONICA現場監督
28WB等、数える程しか存在して無かったと思う。
ただし、上記の中では、本機XA4だけがMF機である。
上記は、高価すぎるNIKON 28TiとRICOH GR1v、そして
銀塩末期のKLASSE Wの3機種を除いて全て所有していた。
基本的には、28mm単焦点広角機はマニアックであり、
所有欲をそそる訳だ。
XA4の最短撮影距離は30cm、マクロと称するのは、
多少はオーバーな表現とは思うが、寄れる銀塩コンパクト
機は、あまり前例が無い。
ただ、目測式ピントなので、確かストラップに30cmの
目印がついていたように記憶している。
1990年代後半には、GR1シリーズが私の主力機に
なっていたので、さすがの広角機の草分け的なXA4も、
もう出番が無くなってしまっていた・・
XAシリーズは、なかなかマニアックで良いと思うし、
ある視点においては格好良い。私は未所有だが、XA2は
カメラ界初の「グッドデザイン賞」を受賞している。
XAの正統後継機(後述)のμ(ミュー)シリーズも
デザインが良い機体が多く、オリンパス機が「お洒落」
(ファッショナブル)という世間的なイメージは、この
時代から生まれて来たのであろう。
しかしながら、世の中は既に1970年代末から、AF搭載の
コンパクト機が主流になってきている。一応オリンパスも
C-AF(1981年)や、ピカソ(1983年~)シリーズで、
やや遅ればせながらAF化に追従はしているのだが、依然、
MFのXAシリーズを「主役」と見ていた節もあったのだろう。
まあ、結局のところ、オリンパスにおけるAF化への着手の
遅さが、αショック(1985年)以降に、OMシステムの
AF化の失敗に結びついたのかも知れない。
でも、写真を撮るという行為の上では、初期AFの性能では
「あっても無くても一緒」という気もしないでは無いので、
マニア層に向けたXAシリーズのコンセプト上では、AFは
不要だったとは言えるが、それでも一般ユーザーはそうは
思わない。このXA4の発売直後の時代には、世の中では
「AFは最新技術であり、これでようやく一般層の誰でもが
写真を撮れるようになった。AFでなければカメラにあらず」
・・という風潮や概念が急速に広まってしまった訳である。
前述の天才技術者「米谷美久」氏は、この大変な時期に
何をしていたのか? と思えば、XA4やαショックの前年、
1984年に取締役に昇進している。まあ、PENやOM-SYSTEM、
そして、グッドデザイン賞も受賞したXA2等の開発の功績
(注:XA2のデザインは、米谷氏、本人の手によるものだ)
による昇進だとは思うが、もしかすると、その時点で開発の
最前線からは離れてしまっていたのかも知れない・・?
(あるいは、開発を統括していたとしても、もしかすると
初期の未成熟なAF性能に対して「こんなAFならば、MFの方が
ずっとマシだ」とか、また拘りを貫いたのかも知れない・・)
まあ、今となっては、そのあたりの真相は闇の中だ。
さて、以降は、1990年代の銀塩AFコンパクト機である。
1991年 μ(ミュー)(Limited)
AF化に出遅れたオリンパスではあったが、1990年代の
μ(ミュー)シリーズで、大きく盛り返す。
スライドバリアー方式で、スタイリッシュな「μ」は、
XAシリーズの正統な後継機と言えるであろう。
勿論AFであり、初代μでは35mm/F3.5の高性能単焦点
レンズを搭載、そして最短撮影距離も、XAの85cmから、
35cmまで大幅に短縮されている。
私は、初代μに加えて、その限定版、鏡面仕上げの
μ Limitedも所有していた(全世界5万台限定発売)
(と言うか、μを下取りしてμ Limitedに買い替えた。
ノーマルμが中古で6000円での購入、Limited版は
新品在庫品で17000円の購入価格であった)
Limited版は美しいカメラであったが、すぐに指紋で
ベトベトに汚れてしまうのが難点であり、付属品として
ボディを磨くクロス(セーム革)が付属していた。
カメラ本体は、いったい誰に譲ったのか? もう覚えて
もいない位であるが、その付属クロスだけは、何十年間
もの間、ずっとカメラバッグに入ったままであり(笑)
出先でレンズが汚れた際には、今もそれで拭いている。
初代μは、なかなか良かったのだが、以降の銀塩μシリーズ
は、ほぼ全てがズーム搭載機となって、マニアックな視点
から後継機は全く興味が持てなくなってしまっていた・・
1994年 LT-1
外観が合成皮革で覆われた独特の雰囲気を持つ単焦点AF
コンパクト機。型番のLTとは、Leather(皮)の意味か?
希少な単焦点機ではあったが、しかし従前の「μ」と
性能差は無い模様で「単なる外観変更版」に過ぎない
ように思えたので、μ Limietedを残し、この機体は
早々に譲渡してしまっていた。
1997年 μ(ミュー)-Ⅱ
この時代になって、ようやく新開発の単焦点機が登場。
XA、そして初代μの流れを(正統に)汲むコンパクト機
である。
35mm/F2.8高描写力単焦点。このレンズの性能は、
只者ではなく、当時、市場で大人気であった各社の高級
コンパクトを時に凌駕する高描写力を魅せてくれた。
マニア層も、この機体には過敏に反応。ポケットに入る
小型超高性能機であった事から、そしてこの年からTV放送
が始まり人気であった「ポケモン(ポケットモンスター)」
(注:1997年12月に、TV視聴者の多くが光過敏性発作を
起こした事件が発生、「ポケモンショック」と呼ばれた)
・・の登場キャラクター「ミュウツー」にもちなんで、
本機μ-Ⅱも、マニアの間では「ポケットモンスター」
と呼ばれる事が定着していった。
マニア向け販売のみならず、人気女優・モデルの「りょう」
(前年に高視聴率TVドラマの「ロンバケ」に出演)を広告に
起用し、スタイリッシュなイメージを強調する等、一般層
向けにも力を入れていた。
この機体の生産台数は、380万台超え、とも言われていて
その数値が正しいとすれば、(注:異常に大きな数字
なので、あまり信用に値しない)一般レベルにおいても
かなりのビッグセールスとなったカメラであろう。
1998年 μ-Ⅱ Limited
上記のように、μ-Ⅱは、非常に高性能であり、私は
「銀塩普及コンパクト機最強のカメラ」と定義している。
だが、個人的には「せっかく隠れた名機を見つけた」と
喜んでいたのに、妙にこの機種がマニア層や一般層の間で
有名になってしまったのは、どうにも面白く無い(汗)
そこでμシリーズの累計販売台数が1000万台に到達した
のを記念して新発売された、限定版(国内5000台)の
μ-Ⅱ Limited(1998年)に買い換えた次第である。
(ノーマルのμ-Ⅱが新品購入価格28000円程、限定版も
価格は全く変わらず、新品で28000円であった)

黒の塗装色であったが、Limitedは、なんとも言えない
漆塗り風のブラックメタリックカラー仕上げとなっている。

デザイン的にいただけないが、バリアーを閉じてしまえば、
上品な雰囲気をかもしだしてくれる。
また、初代μ Limitedのように指紋で汚れる事も少ない。
外観以外の性能はノーマル機と一緒だ。
これで銀塩最強コンパクト機μ-Ⅱを、よりマニアックに
使い続ける事が出来るようになり、満足であった。
この機体は、2000年代後半、銀塩終焉期まで愛用して
いたが、さすがにその後は使っていない。今でも一応
完動はする。他のオリンパス・コンパクト機は、殆ど
デジタル時代に入って処分してしまったが、本機は
その性能および歴史的価値の高さから大事に保管している。
ただ、本機の存在のおかげで(せいで?)銀塩(高級)
コンパクト機へのコスパ感覚がシビアになってしまった。
つまり私も、流行の高級コンパクト機を、本機の何倍
もの高値で多数購入していたのが、安価な本機μ-Ⅱで、
それらに勝るとも劣らない描写力を持つのであれば・・
「いったい、高級コンパクトの”高級”って何??」
という素朴な疑問が沸きあがってしまったのだ。
まあ、絶対価値感覚(すなわち、コスパ感覚に直結する)
を養う、という意味で良い教材になったカメラが、本機
μ-Ⅱ(Limited)であっただろう。
つまり、ぶっちゃけ言えば、「値段が高いから」とか
「有名なメーカーの製品だから」とか、「誰かが良いと
言ったから」とか、そういった類の、消費者層が持つ
ありきたりの価値感覚が、全くの的外れで、意味が無く、
それどころか多くの場合で、それは正しい情報では無く、
むしろ弊害だ、という事実を痛感した次弟である。
以降、私は自分自身が多数の機材を使う事で身について
いく自分の価値観だけを信じる事となった。
1998年 NEWPIC M10 Macro
では、本記事でのラストの機体の紹介だ。
本機は、「超接写」APS単焦点コンパクト機で、
10cmまでの接写が可能であり、当時としては希少、
というか、画期的な性能を持ったカメラである。

この時、本来は25mm/F6.7のレンズが、なんとF44まで
絞り込まれる。この際の被写界深度は、仮にAPSフィルム
での許容錯乱円を0.03mmとすれば、撮影距離20cmの時、
およそ20cmの範囲(深度)つまり10~30cmの距離だ。
が、この状態では露出が合わない。そこで本機においては
ウルトラおよびスーパーマクロモードの接写時は、必ず
内蔵フラッシュが焚かれる。
恐らくはGN(ガイドナンバー)が6程度の内蔵フラッシュ
なので、これを発光すると、ISO400のフィルムの場合、
フラッシュ到達距離は、簡単な公式により
GN6/F44x√(400/100)=約27cmとなる。
すなわち、被写界深度に相当する10~30cm程度の
距離範囲は、フラッシュ光だけで撮れるようになる。
これはなかなか凄い発想のカメラであるが、このアイデア
は、オリンパス独自の物ではなく、(COSINA社と並んで)
銀塩時代での巨大OEMメーカーの「GOKO」社による技術で
同社製のマクロマックスシリーズ(数機種あり)あるいは
従前の「ユニバーサルフォーカス」(UF-2)が元祖である。
GOKO(旧:三星光機、1953年創業)は、世の中に殆ど
名前が出ない巨大OEMメーカーである。
1960年代、8mmフィルムの編集機での世界シェアが、
何と85%以上という驚異的な実績を足がかりとして、
1980年代からは、銀塩コンパクト機の製造に進出。
1990年前後では、国内大手カメラメーカー8社中の
7社の低価格帯銀塩コンパクト機を製造していた。
その時代、GOKO製銀塩コンパクト機の生産台数は
年間420万台、その生産台数は、当時世界一であり
(注:これは多分信頼のおける数値。なので、μ-Ⅱが
380万台も売れた、という数字は、どうも怪しい。
オリンパスでも当然、GOKO社でカメラを製造して
いただろうからだ・・)
この時点での、世界シェアは実に数10%にも及んだ
と言われている。まあつまり、殆どのコンパクト機
がGOKO製であり、有名なメーカー銘は、単に、その
カメラに印刷された名前でしか無かった訳だ。
(注:後年2000年頃の低価格デジタル・コンパクト機
は、GOKO社では無いが、他の巨大OEMメーカーが、
その殆どを生産していた。ここでも同様に、各カメラ
のブランド銘など、何の意味も持っていなかった訳だ。
「どこぞのメーカーのカメラは良い」とか思い込んでいる
消費者層には、この歴史的事実を理解して貰いたい)
GOKOのメーカー銘が世に知られる事は無かったのだが、
この特異なアイデアのカメラだけは、自社ブランド銘でも
発売した。(注:マクロマックスのアイデアの大元は、
1980年代のGOKO UF-2(未所有)である)
私は同社製マクロマックスFR-2200も所有していたが
本機M10と全く同一仕様のカメラであったので、デザインが
優れた本機を残し、GOKO版を知人に譲渡した次第である。
でも、いずれも後年に残すべき、極めて特異なコンセプト
の、歴史的価値の高いカメラである事は間違いない。
ちなみに、絞り込んでフラッシュ光のみで撮る技法は
多くのデジタル機でもシミュレートする事は可能だ。
まあでも、F44程度まで絞れるレンズや、最短撮影距離
が10cmと短いレンズも、なかなか無いが、そのあたりは
あまり厳密には考えずに、ミラーレス機や高性能デジタル
コンパクト機で試してみると、なかなか楽しいであろう。
(下写真は、SONY NEX-7とOLYMPUS OM50mm/F3.5Macro
を用いて、本機と同様の原理・技法を用いて撮影した例)

「フラッシュ到達距離の公式」を覚え、常にその値を
撮影現場で暗算できるようにしておかなくてはならない。
「難しい」とは思うなかれ、GN(ガイドナンバー)とは
暗算でもできるように、と決められた簡略化単位なのだ。
これを、ルクスやルーメンやフートキャンドルで計算
していたら、誰も暗算ではフラッシュの到達距離は計算
する事が出来ない。
オリンパスの銀塩コンパクト機の総括としては、
マニアックな機体については、だいたい今回の紹介機のみ
となるだろう。オリンパスの持つ「マニアックな」という
要素を重視するならば、選択肢はこれらしかなかったし、
あるいは別のイメージである「大衆機」を欲しいならば
他の多くのコンパクト機は、それに近いものがあったと思う。
ただまあ、いずれにしても現在において、中古市場で
(PENシリーズを除く)これらのマニアックなオリンパス
銀塩コンパクト機を探して入手するのは極めて難しい。
ほぼ全てが、その時代での「消耗機」であったからだ。
そして今更ながら無理をして探す必要も殆ど無い事であろう。
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さて、今回の記事はこのあたりまでで・・
丁度銀塩時代が終焉した頃である。
次回記事は、OLYMPUS編の後編として、デジタル機の
変遷を紹介していこう。